天皇皇后両陛下は、国賓として6月17日より1週間インドネシアを訪問された。ご即位後初めて国際親善のために公式訪問する国として、インドネシアを選んだ何らかの政府判断があったと思われる。
インドネシアは親日国で知られている。伝統的な日本文化の他、ドラえもんなどの漫画、アニメ、ビデオゲームなどのサブカルチャーもインドネシアで人気がある。国際世論調査によると、好意的な対日・対日本人感情をもつ人々がインドネシアでは非常に多いことがわかっている。
インドネシアは第二次世界大戦後オランダの植民地から独立したが、独立に対する日本の協力姿勢がインドネシア人の親日感情に影響しているという意見がある。一方、それを全く否定する意見もある。実際はどうだったのだろうか。
太平洋戦争で日本は1942年2月蘭領東インド(現インドネシア)に侵攻した。植民地支配からの解放を期待するインドネシアの人々は日本軍の侵攻を歓迎した。スカルノ、ハッタら独立運動のリーダーは日本軍に協力した。しかし、日本の侵攻はインドネシアの資源確保を主目的としており、占領地に軍政を布いて独立を認めなかった。人々の期待は深い失望に変った。
1944年9月戦局が悪化する中、小磯内閣はインドネシアの独立を認める声明を出し、1945年8月7日、スカルノを委員長、ハッタを副委員長とする独立準備委員会が設置された。しかし独立計画が実施される前の8月15日、日本は連合国に降伏しインドネシアは空白状態になった。8月16日スカルノ、ハッタの他、独立準備委員会メンバーは海軍武官前田精(まえだただし)少将の公邸に集まり、独立を決議し、独立宣言文を起草した。翌8月17日スカルノは、自宅に集まった約千人の立ち会いのもとで独立宣言文を読み上げ、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。
スカルノ、ハッタはオランダ政府から主権委譲を受けようとしたが、オランダはインドネシア共和国の独立を認めず、再占領と再植民地化を進めたので、共和国軍はこれを阻止しようとオランダ軍と戦い、インドネシア独立戦争となった。軍事力に劣る共和国軍もゲリラ戦を展開し、よく戦った。国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難した。1949年11月、オランダよりインドネシア連邦共和国に主権を譲渡するハーグ協定が成立し、1950年8月には統一された独立国インドネシア共和国が成立した。
インドネシアの日本軍政期、日本は軍政を補強するために現地青年からなる郷土防衛義勇軍(PETA)を組織し、教育訓練を施していたが、PETAの将兵が独立戦争を戦う共和国軍の主戦力となった。また、日本の敗戦後帰国せずインドネシアに残留した日本兵千人ほどが、独立戦争に参加したといわれる。戦後訪日したインドネシアの指導者は、独立戦争を共に戦った旧日本軍将兵に感謝する旨の発言をしている。
「ロームシャ(労務者)」という言葉が、強制的に徴用されて重労働させられる者の意味で現代インドネシア語に定着している。これが日本の軍政期の圧政を象徴すると言われる。日本の軍政はよかったというインドネシアの指導者もいるが、国民は日本の軍政期に否定的である。しかし、その後のインドネシアの独立に理解を示す日本と日本人の行動は人々に評価されており、これが対日感情に影響を残しているように思われる。
(令和5年7月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |