昨年9月27日に執り行われた安倍晋三元首相の国葬で、岸田文雄首相、菅義偉前首相、麻生太郎元首相が弔辞を述べ、野田佳彦元首相が一カ月後の国会で追悼演説を行ったが、その中で、菅義偉元首相の弔辞が深く心を打つ。菅義偉元首相は弔辞の最後に、明治42年ハルビンで暗殺された伊藤博文を偲んで盟友山県有朋が詠んだ歌を取り上げ、今この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ歌はありませんと述べた。
「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」。
伊藤博文と山県有朋は長州藩の最下級の武士として維新革命に身を投じ、明治の近代国家建設に苦闘した永年の盟友であった。後年、総理大臣などの要職を退任した後も元老として国家の運営に腐心した。二人の力は元老の中で突出していたが、両者の関係は伊藤の方が上位にあり、明治天皇の信任も伊藤に厚かった。上記の歌には、伊藤と共につくりあげた国家の運営を今後どうしていこうかと、伊藤を失った山県の心細さがよく出ている。
伊藤博文は卓越した明治のリーダーだった。明治39年元老の伊藤は、首相官邸に元老(山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨)と重要閣僚(西園寺公望首相、寺内正毅陸軍大臣、齊籐実海軍大臣、阪谷芳郎大蔵大臣、林董外務大臣)、及び児玉源太郎参謀総長、桂太郎前首相、山本権兵衛前海軍大臣らを招集し、日露戦争後の満州問題について協議、国策の方向付けを行った。当時伊藤は韓国統監であり、こうした国家の指導者を招集して国策を決定するような権限があったわけではない。しかし、元老伊藤にはそれだけの力があり、周囲も伊藤のリーダーシップは当然と考えていた。
伊藤は日露戦争に勝利した後の日本軍が満州経営といって軍政をやめようしないことを憂慮し、国策をきちんと、明確に定めようとした。伊藤は言う。日本は英米両国と提携して満州の門戸開放を提唱し、ロシアとの戦争に入ったのであるから、今満州を独占しようとしてはいけない。ロシアに対しても旧怨を忘れさせるようにしないと、ポーツマス条約は一時の休戦条約と同じことになってしまう。また清国に日本を信頼させ、清国で指導的地位に立つためにも、満州はちゃんと清国に返すべきだ。余の見る所では児玉参謀総長等は満州における日本の地位を根本的に誤解しておられる。満州は純然たる清国の領土の一部である。わが属地でないところにわが主権が行われる道理はない、と。
国際社会の動向と日本の実力を熟知する伊藤は実に正しく、的確な判断を下している。日露戦争に勝ったとはいえ、日本はまだ弱く、国際社会の容認する考えに従わなければ日本は危なくなるという現実的、常識的判断である。こうした認識は、実は伊藤の他の元老たちにも共有されていた。
日露戦争後元老たちが退き、維新の第二世代がリーダーとなるにつれて日本は国策を誤るようになる。伊藤はこの会議の3年後世を去るが、彼の死は明治国家を建設した優れたリーダーたちの国家指導層からの退場を象徴する。
日露戦争後日本はなぜ国策を誤ったか。一口で断定することなど不可能であるが、一つには国家指導層の凡庸化と共に、国家の制度化に伴って国家がセクショナリズムに支配され、統一した国家意思の決定能力に欠くようになったことを挙げたい。国家のセクションとしての軍部の意見がそのまま国策のようになった。伊藤はなお軍部を抑える力をもっていたが、その後同様の力をもつ指導者は出なかった。
(令和5年3月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |