防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   1064号 (2021年12月1日発行)
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読史随感
神田淳
<第89回>

最悪の日中戦争(続)

 日中戦争は日米戦争に行き着き、敗者となった日本がすべて悪かったという歴史観が戦後を支配してきたが、事実はそう単純ではない。少なくとも、あの頃の中国の日本人に対するテロ行為がいかにひどいものだったかという事実を、我々はよく知っておく必要がある。
 盧溝橋事件(1937)の前から、中国各地で対日テロが頻発していた。1935年(11月)上海で日本水兵が射殺された。1936年には上海で散歩していた三菱商事社員が頭を撃たれて即死(7月)、四川省成都で新聞記者らが大勢の暴漢に棍棒で襲われて死者2名、重傷者2名を出す事件が起きた(8月)。9月には、広東省北海で薬局経営者が自宅乱入の抗日団体によって殺害され、漢口で日本領事官巡査が後ろから射殺され、上海では歩行中の日本水兵4名が狙撃されて1名が即死、2名が重傷を負った。
 日本人に対する暴力沙汰は日常化し、死者も出ていたが、極めつきは、1937年7月に起きた通州事件である。中国保安隊3千人が北京東方の通州に住む日本人居留民と日本軍守備隊を襲い、婦女子や幼児を含む235人を惨殺した。中国兵による想像を絶する残忍な日本人殺害だった。目撃者の供述書は記す。「東門を出ると居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では一家悉く首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。他の飲食店では7、8名の女性が全部裸にされ、強姦刺殺され、陰部に箒を押し込まれたり、腹部を縦に断ち割られたりして見るに堪えなかった。近くの池では首を電線で縛り、両手を合わせてそれに八番線を通し、一家6名を数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでいた。生存者の収容に当たり、日本人はいないか、と叫んで各戸を回ると、鼻に牛のように針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが出てきた」。
 これが人間のすることだろうか。中国の史書には残忍な殺人記録が頻出するが、これも支那文明の一部なのだろう。通州事件は軍部だけでなく、日本国民を激高させ、暴支膺懲(暴虐な支那を懲らしめる)が叫ばれたが、なお日本は中国との戦争に自重していた。
 日本が堪忍袋の緒を切らし、事変の不拡大方針を捨て、中国との戦争に踏み切ったのは、前稿で述べたように、上海で日本租界およびこれを護る日本の陸戦隊や軍艦が、中国軍に激しい攻撃を受けたからである。当時のマニラ電電公社のR・Eエドワードは言う、「上海に来て抗日のひどさに驚いた。何でこれほどまでに日本人は我慢しているのか。欧米各国は誰も知らない。中国の宣伝を信じている。もっと日本は報道機関を充実させて、積極的に事変の真相を説明しなければだめだ」と。
 しかし中国は、日本の侵略に対して抗日戦争を戦い勝利した、抗日は正義であり、非は侵略した日本にある、という史観を変えることはないだろう。
 私は日本が北支一帯(中国北部の河北、山東、山西、チャハル、綏遠の5省)を蒋介石の国民政府の影響下から切り離し、日本の勢力下に置こうとして、1935年から関東軍がリードして進めた「華北分離工作」が決定的によくなかったと思う。これが華北への侵略となり、抗日・排日が激化した。
 日中戦争は、関係する数多くの事実をつぶさに見て自己の史観を確立する必要があるが、少なくとも日本を一方的に断罪する戦後主流の史観には私は与しない。
(令和3年12月1日)

神田 淳(かんだすなお)
 元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。


はたらくくるまが大集合
「一日防災学校」支援
<6普連>
 第6普通科連隊(連隊長・佐藤靖倫1陸佐=美幌)は、10月28日美幌町立旭小学校が実施する「一日防災学校」を支援し、車両展示を実施した。
 旭小学校での一日防災学校は、今年で4回目の開催となっており、児童に対し防災教育の一環として、地震や火事から暮らしを守るために様々な機器があることを教え、実際に触れさせることで理解を深めることを目的として実施された。
 午前10時から始まった避難訓練では、校舎火災を想定し教室から校舎前への避難行動が行われた。その後、校舎前において自衛隊、美幌警察署、美幌消防署の紹介が行われた。
 紹介後にはグラウンドにおいて1年生・4年生を対象とした車両見学授業が行われた。車両見学授業では、第6普通科連隊が軽装甲機動車、96式装輪装甲車及び1・ 2
1 /t救急車を展示した。支援に参加した隊員は、児童からの問いかけに分かりやすく展示車両等の説明をした。
 また、自衛隊車両の展示だけでなく美幌警察署のパトカー及び指揮官車、美幌消防署の高所活動消防自動車、水槽付消防ポンプ自動車及び高規格救急自動車も展示された。
 児童達は、各種特殊車両等が災害時にどのような活動を行うか説明を受けるとともに、各特殊車両等を実際に見て触れて、楽しみながら防災に対する理解を深めていた。

習志野コラボメシで観光気分
(函館編)
 陸上自衛隊習志野駐屯地(司令・堺一夫陸将補)隊員食堂では、陸上自衛隊の駐屯地に航空自衛隊の第1高射隊が分屯する特性を活かし、今年度から毎月1回、陸上自衛隊と航空自衛隊のコラボメニューを提供しており、とうとう9月で第6弾を迎えた。
 上半期の締めくくりは、8月の第5弾『習志野ピーナッツ丼空自バージョン』が予想以上に好評だったことから、「この具をラーメンにのせてみよう」との単純な発想で『習志野ピーナッツラーメン1高隊バージョン』と2カ月連続で第5弾と同様の『揚げ手羽ピーナッツからめ空挺バージョン』。
 メニュー考案にはやや疲れが見えるが、味付けには手を抜かない。
 『習志野ピーナッツラーメン1高隊バージョン』は、航空自衛隊らしい澄み渡った空をイメージするため、あっさり塩味を追求し、昆布だしをベースに塩、鶏がらスープ等で味を調えることにより、習志野駐屯地に居ながら、まるで北海道の函館塩ラーメンを食している気分を味わえる。具は挽肉を主体として、ピーナッツバター、クラッシュピーナッツ、シイタケ、タケノコ、もやし、小松菜など、ややこってり感のある仕上がりとなっているにもかかわらず、あっさりスープがこってり感を柔らげる。
 さらに『揚げ手羽ピーナッツからめ空挺バージョン』は、ラーメンのあっさり感に対抗して、やや濃いめの味付けと後のせクラッシュピーナッツで香ばしい食感を残し、インパクトを持たせた。
 今回は、濃い味の揚げ物だったこともあり、ラーメンスープを最後まで飲み干す隊員もいる程で、こってり感とあっさり感のエンドレスループが各テーブルで繰り広げられ、今回も駐屯地の定番メニューの仲間入りを果たす結果となった。
 さらに北海道通からは、「揚げ手羽が半身揚げなら北海道郷土料理メニューでもいけるね!」と更なる新メニュー考案のアドバイスも頂き、新メニュー考案にやや行き詰まりを感じていた勤務員に希望の光が灯った。
 なお、10月からは下半期メニューが開始され、秋、冬にふさわしいコラボメニューを考案していきます。
 今後も習志野コラボメシをお楽しみに!

グラウンドゴルフ大会開催
市民と交流
<えびの駐屯地>
 えびの駐屯地(司令・一宮大介1陸佐)は11月21日、えびの市民と隊員との交流のためグラウンドゴルフ大会を実施した。
 この大会は、えびの市自衛隊後援会と駐屯地が共催するもので、今年で9回目。新型コロナの影響等で3年振りの実施となった。
 約400名の市民と約60名の隊員が92チームに分かれ4つのコートで熱戦を繰り広げた。
 大会に参加した、えびの市グラウンドゴルフ連合会の源嶋静義さんは「普段接する事のない隊員の方々と競技を通じ意見交換ができ、とても楽しかったです。えびの市や地域のために、頑張る自衛隊の皆様の新たな一面を見ることができ元気を頂きました」と競技の感想を話してくれた。

献血に協力
隊員57名が押しかける!
<倶知安駐屯地>
 倶知安駐屯地(司令・齋藤誠2陸佐)は、11月5日、駐屯地において、北海道赤十字血液センターが実施する献血に57名が協力した。
 駐屯地の隊員は、訓練や業務の合間をみて献血に押しかけ、バス内は常に満席状態。コロナ禍で献血協力者が減少する中、駐屯地では、若い世代の健康な血液の提供ができ、同センターの方々もホクホク顔だった。

父から私へ、そして息子へ
第47普通科連隊(海田市) 陸曹長 松川瑞彦
 我が家は、父、私、息子と親子3代陸上自衛官です。
 父は、昭和39年に入隊し、第4普通科連隊(帯広)等の勤務を経て、第46普通科連隊(海田市)勤務を最後に平成12年定年退官しました。
 私は、この父の背中を日々見ていたため、「自衛隊は、とてもやりがいのある仕事」と確信して平成元年に入隊し、現在、第47普通科連隊で勤務していますが、月日の流れが早く定年まであと数年という時期に至っています。
 息子は、令和3年3月に念願が叶い第46普通科連隊に自衛官候補生として、入隊しました。幼い頃から記念式典や各種イベントを楽しみにしながら駐屯地によく足を運び、自衛官との接点が多数あったことから「将来は陸上自衛官になりたい」と常々言っていました。また、「陸上自衛官の採用試験を受験するが、駄目だったら合格するまでチャレンジする」と言うほどの決意でした。その決意の背景は、平成30年7月の西日本豪雨において、水害により通学していた高校が休校となり、週に1〜2回学校の復旧を兼ねた清掃のため登校している際、北海道や京都から入浴支援や給水等のため駆けつけた災害派遣部隊の活動拠点を目の当たりにしたことからです。
 自衛官候補生課程を修了した息子は、私の勤務している第47普通科連隊と同じ海田市駐屯地に所在する、第46普通科連隊本部管理中隊重迫撃砲小隊に配置されて、日夜練成訓練に励みつつ即応態勢を維持しています。
 同じ駐屯地、また同じ職種の隊員として勤務できる期間は限られていますが、切磋琢磨して部隊の精強化及び安全・安心な地域の方々の生活を守ることができるよう勤務してまいります。

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