日中戦争は日米戦争に行き着き、敗者となった日本がすべて悪かったという歴史観が戦後を支配してきたが、事実はそう単純ではない。少なくとも、あの頃の中国の日本人に対するテロ行為がいかにひどいものだったかという事実を、我々はよく知っておく必要がある。
盧溝橋事件(1937)の前から、中国各地で対日テロが頻発していた。1935年(11月)上海で日本水兵が射殺された。1936年には上海で散歩していた三菱商事社員が頭を撃たれて即死(7月)、四川省成都で新聞記者らが大勢の暴漢に棍棒で襲われて死者2名、重傷者2名を出す事件が起きた(8月)。9月には、広東省北海で薬局経営者が自宅乱入の抗日団体によって殺害され、漢口で日本領事官巡査が後ろから射殺され、上海では歩行中の日本水兵4名が狙撃されて1名が即死、2名が重傷を負った。
日本人に対する暴力沙汰は日常化し、死者も出ていたが、極めつきは、1937年7月に起きた通州事件である。中国保安隊3千人が北京東方の通州に住む日本人居留民と日本軍守備隊を襲い、婦女子や幼児を含む235人を惨殺した。中国兵による想像を絶する残忍な日本人殺害だった。目撃者の供述書は記す。「東門を出ると居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では一家悉く首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。他の飲食店では7、8名の女性が全部裸にされ、強姦刺殺され、陰部に箒を押し込まれたり、腹部を縦に断ち割られたりして見るに堪えなかった。近くの池では首を電線で縛り、両手を合わせてそれに八番線を通し、一家6名を数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでいた。生存者の収容に当たり、日本人はいないか、と叫んで各戸を回ると、鼻に牛のように針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが出てきた」。
これが人間のすることだろうか。中国の史書には残忍な殺人記録が頻出するが、これも支那文明の一部なのだろう。通州事件は軍部だけでなく、日本国民を激高させ、暴支膺懲(暴虐な支那を懲らしめる)が叫ばれたが、なお日本は中国との戦争に自重していた。
日本が堪忍袋の緒を切らし、事変の不拡大方針を捨て、中国との戦争に踏み切ったのは、前稿で述べたように、上海で日本租界およびこれを護る日本の陸戦隊や軍艦が、中国軍に激しい攻撃を受けたからである。当時のマニラ電電公社のR・Eエドワードは言う、「上海に来て抗日のひどさに驚いた。何でこれほどまでに日本人は我慢しているのか。欧米各国は誰も知らない。中国の宣伝を信じている。もっと日本は報道機関を充実させて、積極的に事変の真相を説明しなければだめだ」と。
しかし中国は、日本の侵略に対して抗日戦争を戦い勝利した、抗日は正義であり、非は侵略した日本にある、という史観を変えることはないだろう。
私は日本が北支一帯(中国北部の河北、山東、山西、チャハル、綏遠の5省)を蒋介石の国民政府の影響下から切り離し、日本の勢力下に置こうとして、1935年から関東軍がリードして進めた「華北分離工作」が決定的によくなかったと思う。これが華北への侵略となり、抗日・排日が激化した。
日中戦争は、関係する数多くの事実をつぶさに見て自己の史観を確立する必要があるが、少なくとも日本を一方的に断罪する戦後主流の史観には私は与しない。
(令和3年12月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |