防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   1064号 (2021年12月1日発行)
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ノーサイド
北原巖男
尽力して来ている人々

 12月を迎えました。
 全国の自衛隊員の皆さん、本紙読者の皆さんには、
 「あっという間だなぁ…」それとも「ようやく12月か…」でしょうか。
 それぞれに「いろいろあった」中で、尽力され、頑張り、今日に至っていることと思います。
 先日11月22日、来日中のグスマン東ティモール民主共和国再建国民会議(CNRT)党首が三宅外務大臣政務官と親しく懇談しました。グスマン党首は、東ティモール独立回復闘争時代の最高指揮官であり、2002年5月20日の独立回復後には初代大統領を務め、また首相等として同国国民の先頭に立って国づくりに尽力して来られた、いわば国父とも言うべき方です。
 三宅政務官は、来年が東ティモールの独立回復20周年・日本と東ティモールの外交関係開設20周年の節目の年であり、今後とも東ティモール支援を継続して行く旨表明すると共に両国関係の一層の発展を祈念し、双方による「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けた具体的な案件の着実な実施に尽力して行くことに言及されました。
 グスマン党首は、東ティモールの発展に対する日本の継続的な支援に謝意を表し、地域の諸問題に対しては日本と連携した取り組みを進めて行く考えを言明されています。
 今、両国は、大変良好な二国間関係にあり、東ティモール国民はとても親日的です。
 過去には「いろいろあった」日本と東ティモール。
 1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃直後の12月17日、オランダ・オーストラリア連合軍約1500名は、当時中立だったポルトガル領東ティモールを予防占領。これを受けて、日本軍は1942年2月18日東ティモールに進攻し、20日には連合軍を駆逐。その後1945年8月15日の終戦まで占領しました。その後、東ティモールは再びポルトガルの植民地に戻りました。
 そして1975年11月28日、東ティモールはポルトガルからの独立を宣言。独立を支援したのは、ソ連や中国そしてベトナム戦争に勝利した北ベトナム。隣国インドネシアのスハルト大統領は、12月6日インドネシアを訪問中のフォード米大統領と会談し「東ティモールはアメリカのキューバになる」と危機感を表明、東ティモールへの進攻について予め内諾を得たのではないかと言われています。フォード大統領帰国の翌日12月7日、インドネシア軍は東ティモールに進攻し首都ディリを制圧、翌1976年2月には東ティモールをインドネシアの27番目の州に併合しました。激しい独立闘争は24年に及びます。この間、東ティモールの犠牲者は当時の人口の5分の1に及ぶ約20万人、インドネシア兵士は約3800人が死亡しました。
 日本・アメリカ・オーストラリア等は、この独立闘争を支援せず、国際社会からは、この独立闘争は成功しないのではないかと見られていました。
 こうした中にあって、日本でもさまざまな人々が草の根での独立回復闘争支援に尽力されて来ました。
 そのうちのお一人が高橋道郎さん。
 東ティモールを訪問される皆さんが、必ず訪れるのが首都ディリ市内にある「レジスタンスミュジアム」。そこに展示されているいくつかの「衛星携帯電話」に眼が行くと思います。インドネシア軍に比べ装備等が極めて貧弱な東ティモールにとって、この「衛星携帯電話」はジャングルでの作戦遂行等に甚大な役割を果たしました。
 高橋さんが命懸けで届けたものです。
 高橋さんは、もともとは学校の先生方を支援する教育財団のスタッフの方。「パードレー佐藤」と称し、神父さんに姿を変えて独立回復闘争支援に奔走されました。今でもその穏やかな風貌・語り口は、僕には神父さんそのもののように思えます。
 こんなこともあったそうです。東ティモールへの経由地インドネシアでの入国審査。
 「入国は認めない」
 「何故だ」
 「タカハシミチオは、ブラックリストに載っている」
 「タカハシは、日本で一番多い苗字だ。10人に一人はミチオという名前だ。入国を禁止されているタカハシミチオは、自分とは別人だ」
 (以下略)
 即時、日本送還。
 高橋さんは、日本国内でも東ティモールのラモス・ホルタノーベル平和賞受賞者の講演会の開催等、積極的に独立回復支援活動の拡散に努めて来ました。
 独立回復闘争に大きく寄与された高橋さんは、独立回復後最初の在郷軍人会(ベテランズ・アソシエーション)総会で、終身名誉会員に選出されています。後にも先にも日本人で高橋さん唯一人。独立回復のため戦ったベテランの皆さんとの心の交流は今も不変です。
 コロナ禍の前まで続けて来られた東ティモール訪問、約30ある地方言語の保護にも奔走され言語辞典を編纂、孤児に対する奨学金の供与・図書館建設・蔵書の寄贈等の人材育成、バイオガス等の農業支援、日本の皆さんに対する東ティモールの発信等、広範多岐にわたる活動に熱心に取り組んでいます。
 今日の日本と東ティモールの良好な関係には、高橋さんを始め幾多の皆さんの様々な尽力の積み重ね・継続が「いろいろあった」に違いありません。
 隊員の皆さんや読者の皆さんが係わってきているお仕事や事柄等にも、きっと高橋さんのような方々がいらっしゃるのではないでしょうか。
 「いろいろの内訳聞いてみたかった「いろいろあった」ですますあなたに」(11月16日付け読売新聞「読売歌壇」 堺市 一條智美さん 選者 俵 万智)
 2021年も僅かです。
 頑張りましょう!

北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事


雪月花
 将棋の藤井聡太3冠(王位 叡王 棋聖)が竜王を制して同時4冠を獲得した。史上最年少の快挙だと各紙が大きなスペースを割いており、この勢いなら今にも前人未踏の八冠全部を同時制覇しそうな論調もみうけられた。将棋ファンならずとも関心を持たらずを得まい。筆者も子供のころ近所のおじさんから将棋を教えられた、学校に上がる前だった。うちの地区には相手になるような大人がいなかったから子供を育成したのだろう。将棋盤は材木を削り駒も板に書いておじさんと一緒に作るあり合わせだったが子供たちはすっかり将棋にのめり込んだ。学校からおじさんの家に直行するほどになった、1年でおじさんと対等に指せるようになった子もいた。おじさんは対局だけでなく将棋の歴史にも詳しく原型はヨーロッパ、中国にあり徳川吉宗も推奨したことで日本でも爆発的に庶民の間に広まったことなども話してくれた。筆者は昭和30年代上京、浅草で屋台の賭け将棋に偶然行き当たった。呼び込みの人が俺に勝ったら1000円あげる、負けた時は1手につき10円だけ払えば良いから指さないかと言いながら参考の棋譜を見せて易しそうに3手くらいで詰めた。見ていた一人が自信をみなぎらせて名乗りをあげた。対局を始めたが呼び込み側は手数を多くするためにのらりくらりと引き延ばして挑戦者を負かして終わらせた。そこで清算となりお客さんは自分の指したのは〇〇手だから〇〇円を払おうとしたが相手は俺の指した手数も計算せよとの強い口調に抵抗できず従わされた。確かにどちらが指すのも1手だが自分の指した数だけだと取り囲んだ誰もが思っていたのではないか。楽しく遊んで競い合った大切な将棋を詐欺のように使う現場を目撃し大きな衝撃を受けたことだった。コロナ禍で筆者の通う囲碁の日本棋院も一時閉鎖していたが今では以前の状況に戻っている。将棋も囲碁もこれから倍返しで盛況になることだろう。

開隊68周年行事を開催
<館山航空基地>
 海上自衛隊館山航空基地開隊68周年記念行事が10月15日、同基地内で執り行われた。今年も昨年に引き続きコロナ禍による感染防止の観点から一般公開を見送り、館山航空基地で勤務する隊員約200名のみが参列し、群司令による訓示と同基地所属の航空機による展示飛行が行われた。同基地は、昭和5年の海軍航空隊設立からの歴史を有し、海上自衛隊としては、昭和28年に館山航空隊を開隊して以来68年の長きにわたる。
 式典で、第21航空群司令の石川一郎海将補は、「館山航空基地が今日まで発展し続けてこられたのは、地元住民の方々の多大なるご支援とご理解、そして多くの諸先輩方の努力の賜物であると再認識するに至り、発展に携わった多くの方々に、改めて謝意及び敬意を表したい」と述べた。一方で、我が国を取り巻く安全保障環境は厳しさと不確実性を増す中、多様化する任務や即応体制の維持という大きな課題の他、新型コロナウイルスに関しても訓練や業務、生活様式に至るまで多くの制約を受けることとなり、しばらくは予断を許さない状況にあるとし、隊員に対し、「指導方針である『分を尽くす』を考え、今の状況下で自分は何ができるか、何をすべきかを考えて実行してもらいたい」と述べ、最後に「隊員諸君が館山航空基地の一員として、伝統を大切にしつつも、時代に応じて変化することを恐れず、さらなる館山航空基地の発展のために、『明るく朗らかに』勤務することを強く希望する。またこれから新しい歴史を共に作っていこう」と力強く述べた。
 その後、基地上空での飛行に引き続き、新型コロナウイルス感染症の収束を願い、北条海岸〜八幡〜館山市役所〜館山城を結ぶルートで、同基地所属のヘリコプター3機による編隊飛行が行われた。

100万回達成!
下総タワー無事故管制
<下総航空基地隊>
 海上自衛隊下総航空基地隊(司令・岩松恒徳1海佐)は、令和3年9月8日午前9時56分、第203教育航空隊所属のP-3C 5082号機に対する離陸許可をもって、下総飛行場管制所無事故管制100万回を達成した。今回の記録は、昭和37年10月1日に飛行場管制所(タワー)の運用を開始して以来、58年間の歳月を経て達成したものである。この記念すべき航空機を管制したのは、現在タワー訓練生の鶴岡優那3海曹であるが、達成の瞬間も鶴岡3海曹はいつもと変わらず、基本通りの手順を踏み、離陸許可を発出していた。
 下総航空基地隊は、この記録に満足することなく日々基本に忠実に管制業務を実施することで更なる記録を目指すとともに、下総飛行場管制所の無事故の誓いを新たにした。

海上幕僚長21年ぶりに航空補給処を視察
処員2名にメダルを授与
<航空補給処>
 海上自衛隊航空補給処(処長・森真規1海佐=木更津)は、10月21日、山村浩海上幕僚長の視察を受けた。海上幕僚長の来処は、平成12年の教育訓練検閲以来である。
 処長が庁舎玄関で出迎え、処内を巡回した。各部の勤務状況をはじめ、倉庫内の航空機部品等の保管状況及び荷物を積載した車両ごと昇降できる8トンエレベータ等を視察した。
 処員との懇談では、海上幕僚長が海上自衛隊の現状及び自身の経験などユーモアを交えながら話したほか、質疑応答などを通じて処員を激励した。また、業務に功績があった処員2名に対し、海上幕僚長からメダルが授与された。

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