2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役となる北条義時は、どのような人物だったのだろうか。
北条義時(1163-1224)は鎌倉幕府の第2代執権。平安時代末期、伊豆の小豪族北条時政の次男として生まれ、父時政とともに源頼朝による平家追討の挙兵に参加。頼朝が開いた武家政権(鎌倉幕府)を支える有力な御家人となった。頼朝の死後は、合議制で運営される幕府の13人の御家人の一人となったが、御家人間の権力闘争を勝ち抜き、執権時政の失脚後、第2代執権となった。1221年後鳥羽上皇が倒幕を決意し、義時追討の勅令を発したが、幕府のもとに参集した関東の御家人たちは、義時の長男泰時を総大将として大挙して京に攻め上り、朝廷軍に圧勝した(承久の乱)。ここに幕府の朝廷に対する政治的優位が確定し、武家政権が全国政権として確立した。
北条義時は源頼朝が始めた武家政権を完成させた政治指導者であるが、後世史家による義時の評価は概して芳しくない。おしなべて北条氏歴代は、陰険と言われ、悪辣とそしられる人々が少なくないが、その代表として必ず義時が挙げられる。義時への非難はまず承久の乱で皇室に敵対し、上皇を配流した事実に向けられ、ついで父時政の追放や、競合する有力御家人たちを失脚させたという陰謀に向けられる。そしてそれらの事件がすべて義時に有利な結果に終わったところから、その悪辣さが強調される。特に明治以降の国定教科書では、義時は皇室に敵対した極悪の逆臣として描かれる。
一方、勝海舟は『氷川清話』で義時を高く評価している。「北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。おれも幕府瓦解のときは、せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあった」と。
史家による評価をみると、義時の悪評は、頼山陽に代表されるように、主として君臣間の大義名分論が定着した近世の史家によるものであることがわかる。中世の史家には義時を逆臣、不忠と批判するものは見られない。義時の政治的立場を是認し、武家政権によって民政の安定がもたらされたことを評価している。
『梅松論』に、義時追討の勅令が発せられた上は降伏を勧める泰時に対する義時の言葉が伝えられている。「その議は神妙。ただ、それは君主の御政道が正しい時の事。近年天下の行いを見るに、君主の御政治が昔と変わり、実を失っている。土地所有に関する勅裁が大いに乱れ、国土が穏やかでなくなり、万民が愁えている。この禍が及ばない所は、関東(幕府)のはからいである。天下静謐のため、天道にまかせて合戦すべきである」と。この義時の言葉で、鎌倉の武家政権が何を目的として成立したかがわかる。
武家政権を確立した政治家として、勝海舟と同様、私は義時を高く評価する。『増鏡』に義時は「心も猛く、たましいまされるものにて」と記されている。義時は頼朝のようなすぐれた政治的判断力をもち、行動は良識的である。きわめて怜悧で、果断な決断力と実行力をもつが、温情もある。
私は鎌倉時代を日本史の中で、社会が新しく発展した比較的良い時代だったと思っている。鎌倉の武家政権は社会の進歩に沿った政権であり、幕府代々の北条氏による政治は概ね善政であった。北条義時には歴史的業績にふさわしい評価を下したい。
(令和3年8月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |