高校時代の級友。彼は、予備校界で唯一「寺子屋教育」を続けている受験予備校にて、44年間にわたり「小論文」の熱血指導を続けてきた名物講師である。
彼は書いている。
「私にとって、実に幸いだったことは、私の少年時代と似たような、様々な面で恵まれていない生徒、或いは最下層の成績の生徒が多く通ってくる予備校だった。しかも、苦学生のような、努力自体も目立たない生徒。私にとっては思わず愛さずにはいられない生徒達の学校であったことである」
彼には、理想とする私塾があった。江戸時代に大分県日田に広瀬淡窓(ひろせ たんそう)が開いた「咸宜園」(かんぎえん)である。彼は、その理想に近い「寺子屋予備校」と巡り合い、教員資格がないのに先生となることが出来た。「不思議な奇縁」、逆に言えば、自分ににその「使命」があったとしか思えないと述懐している。
淡窓が、どんな町民・農民であっても、また男女の別なく学問への情熱を有する者は公平に塾生として受け入れ、慈愛溢れる接し方をしたこと、学問、向学姿勢、道徳・倫理などについては、実に峻厳なあり方であったことを、彼は理想とし実践して来た。
更に淡窓の「詩とは情を詠むものである。情が豊かであることこそが人間として最も大切なことである。情は学に優先する」との考えを自らの考えとして、指導に取り組んで来た。
故郷を遠く離れ苦労や辛いことが多いと弱音を吐いたり孤独に落ち込みスランプになっている塾生に淡窓が贈った詩を、今度は彼が生徒達に授業で詠んで贈ったりもした。読んでいるうちに彼自身知らずに涙が溢れ、教室の生徒たちも泣いていたという。
道ふを休めよ
他郷苦辛多しと
同袍友有り
自ら相親しむ
柴扉暁に出づれば
霜雪の如し
君は川流を汲め
我は薪を拾はん
そんな彼からは、教え子たちが沢山育っている。こんなブログも偶然見つけた。
「そこで出会った小論文の先生が僕の人生を変えました。小論文の授業はいつも感動の嵐で、一番泣いているのは先生。泣くというのは、全人類が共通して持っている普遍的な "理" であるからで、それを独創的に伝えるのが小論文だと教えられました。情熱がすごい。
かなりの変人ですが、僕の恩師です。僕のブログなんか先生が添削したら、真っ赤になるだろうな〜 真っ赤な顔で怒って、情熱のペンで容赦なく指摘されて、悔しさで真っ赤になる僕。僕のことは覚えていないと思いますが、先生が生きているうちに会いに行こうと思います。そして、感謝の気持ちを伝えたいと思います」
こんなこともあった。
「体を壊すことなど全く考えず、一心不乱、無我夢中、全魂投入で授業や生徒対応を続けてきた」彼が、腰部脊椎管狭窄症を発症。それまで、激痛をこらえ、杖を突いて板書を行い、講話を行ってきたが、とうとう一歩も歩けなくなり、入院・手術以外の選択肢はなくなった。
そのとき、彼の約30年前の予備校での教え子達が見舞い面会に駆け付けた。
「佐渡島から直接ここに来た」とベッドの前に突然顔を見せたのは、かつて苦学の末に看護師となり保健師・助産師の資格も取って看護学校の先生になっている女性。弱気になっている彼を、涙をためて厳しく叱り、優しく励ましてくれたという。
また、九州から単身上京し、仕事を掛け持ちして勉学に励み入試に挑んだ苦学生だった教え子は、九州から飛んで来た。そしてベッドで言った。
「恩返しがしたい。だから、絶対に復活せよ!」
彼の、自著には、次のような記述がある。
「淡窓の詩・学教育から私が真に理解したことは、 "学問の目的" 、要するに "私塾(予備校)の目的" は、ひとえに "人材の育成" にありと。人材の育成とは何も有名人、偉人の育成を意味しない。無名の庶民の一人ひとりに、"教養溢れる気高い人間 "になって欲しいとの" 学問塾 "でありたいということである。私は、その考えにもとづいて、30歳の時、偶然にも、寺子屋的予備校の教師になったのである。まさに天啓であった。そして、私の教え子達の多くは、" 無名でも真に気高い人間に育ってくれた"と思うのである」
彼が心に火を点けた多くの生徒たちは各方面で気高く飛翔している。
そして、これからも輝き続けて行くことだろう。
そんな彼は、オリンピック開会式当日、新型コロナウイルスのため急逝した。
本年4月26日、最期に彼から受け取った手紙。
「君の思うところを真摯に100%自分の道を生き抜いて行ってください」
北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事 |