ギリシアの哲人ソクラテスは「徳は知なり」と言った。人間の道徳も結局、人間の知、すなわちそれを知っているか、知らないかに帰着する。不道徳は無知のゆえであり、知者ならば、自然に徳ある人となる。
日本人の多くはそう思わないのではなかろうか。日本文化には伝統的に徳と知は別だとする考え方がある。知者は必ずしも徳ある人ではない。また仁者(徳ある人)であって知者でない人もいる。そして、大切なのは徳であって、徳は知よりも上位にある精神的価値である。
福澤諭吉は『文明論の概略』で、文明の進歩は人間の知と徳の進歩であるが、日本は伝統的に徳に重点が置かれてきたと言う。そして、今(明治時代)日本の文明の知は西洋に及ばないので、知の進歩を重んずるべきであると述べた。福澤は、日本史上初めて知の重視を説いた精神的指導者だといわれる。
日本は歴史の中で、徳を知の上に置く文化を培ってきた。知ある人をよく「才ある人」と言い、徳ある人ほどは尊敬しない。「才知」ということばもある。儒教の影響で、人を君子と小人に分け、徳ある人が君子で、才があっても徳のない人は小人である。日本で理想とされる指導者は知の人でなく、徳望の人である。大局観をもち、細かいことは知らなくてよい。部下に任せ、そして責任をとる。いわゆる能吏、技術者、スペシャリストは、徳望の人の下で働くのがよい、とする文化である。
戦前の日本の軍部も、日本のこうした文化に支配されていた。陸軍は日露戦争を戦った大山巌満州軍総司令官と、総参謀長児玉源太郎のコンビを理想化した。西郷隆盛の従弟である大山巌は茫洋とした人物で、部下に一切を任せ、責任を取るタイプだった。児玉源太郎は陸軍きっての知謀の人。大山に一切を任されて日本軍を指導、ロシア軍と戦い、そして勝った。
この成功体験の影響は大きかった。陸軍の軍人は地位が上がるほど、知よりも徳望を重視した。中堅将校の声望を担うような徳望のみの人物が昇りつめた。陸軍は反主知的、精神主義的な組織となった。物理学者中谷宇吉郎は、陸軍には科学精神が全くなかったと明言している。
しかし歴史をつぶさにみると、大山巌と児玉源太郎の実像は陸軍が単純化したようなものではなかった。大山はもともと大変な知の人で、茫洋とした人格は、意識的につくりあげられたものだった。児玉は大山が本来細かい知の人であることをよく知っていた。
そして天才的な知力をもつと評価される児玉は、まれにみる徳望の人だった。日露戦争で命を使い果たし、戦後急逝したが、存命ならば必ず総理大臣になっただろうと言われている。『坂の上の雲』で児玉源太郎を生き生きと描いた司馬遼太郎が、日本の文化の中で、児玉のような知徳を高度に併せもった人格は珍しいと述べていたと記憶する。
しかし私は、知と徳は児玉のように一人格の中に両立するものだと思う。ソクラテスの言う「徳は知なり」に共感する。知と徳は二項対立するようなものではなく、日本の徳重視の伝統は良いが、徳には知が伴わなければならないことを強く思う。
(令和元年8月1日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |