アーノルド・J・トインビー(1889-1975)はイギリスの歴史家、20世紀最大の文明史家といわれる。該博な知識と巨視的な文明史観をもって世界の文明の興隆と衰退を研究。これを大著『歴史の研究』に著した。
トインビーは、人間の文明は、過酷な自然環境や人間環境から様々な挑戦を受けて苦しみ、これに応戦することによって発生するという。そして挑戦に対する応戦の成否が文明の興亡を決める。逆境が文明を生み、困難な挑戦に対する創造的応戦が文明を成長させるが、順境、安逸と成功体験による創造的応戦の喪失が文明を挫折させ、衰退させる。そして創造的応戦力を喪失させるものは、成功体験の偶像化であり、これを先導するのは驕慢であるという。
トインビーは世界史の数多くの文明の興亡を研究して、こうした文明興亡の様相が普遍的にみられることを説いている。日本の近代の盛衰もトインビーの文明史観で説明できる。
幕末、ペリーの来航(1853)に始まる西欧文明の挑戦は、日本に未曾有の困難をもたらした。アジア諸国は次々と植民地化された。科学革命と産業革命を経て近代化し、強い軍事力をもつ西欧列強に対して、攘夷など不可能であり、日本が生き延びるには、開国して西欧並みの強い近代国家になるしかないと信じ、富国強兵の国家目標に邁進したのが日本の応戦であった。日本の渾身の応戦は成功だった。日露戦争(1904-1905)に勝ち、不平等条約の改正にも成功し、日本は列強の一員の地位を得た。
日露戦争後日本はつまずき、転落していく。日本のつまずきは、5大国となった絶頂の日本が北京政府に突き付けた対華二十一箇条要求に始まる(1915、大正4)。
昭和の始め頃より日本は軍部に国政を支配された。満州事変(1931、昭和6)、国際連盟からの脱退(1933)、1937年から始まる日中戦争の泥沼化、日独伊三国同盟の締結(1940)、すべて軍部に引きずられた結果である。そして日米戦争に行きつき、徹底的に敗北する。軍部は日露戦争での成功体験を偶像化し、創造的応戦ができなかった。そして軍部には驕慢な精神が横溢していた。
1945年、敗戦、廃墟、欠乏という挑戦に対する戦後の日本人の応戦は必死だった。必死で働き、懸命に産業を興した。高度成長を実現し、1968年にはGDP世界第2位の経済大国となった。一人当たりのGDPも1980年頃には欧米先進国並みとなった。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という著書も現れた。戦後に始まる昭和の後半(1945-1989)の日本は国力が興隆した成功の時代だった。
1989年から始まる平成の時代は日本が国力を落とした30年と評価される。日本経済の国際的地位は継続的に低下した。日本は冷戦終了後(1989〜)の世界の大きな変化に対応(応戦)できなかった。成功体験がこれを拒んだ。日本の電子機器産業は情報産業に脱皮できなかった。安全保障に関する世界情勢の変化にも日本は対応できなかった。それは湾岸戦争における日本の失敗に現れた。日本は平和憲法を偶像化した。
日本は少子高齢化、厖大な国債発行など、国内からも困難な挑戦を受けている。日本は豊かさを維持できないかもしれない。令和の時代は真に創造的な応戦が求められる。イノベーションを創造する若い世代の知力と人間力を期待したい。
(令和元年7月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |