日本に長く住む、あるいは住んだことのある外国人が、日本人は善悪を美醜で判断すると指摘している。明治から大正、昭和と35年間日本に住んだイギリス人ジョージ・サンソムは、日本人の道徳の基準は、「何々すべし、すべからず」といった論理的命題ではなく、ただまことに鋭い「美醜の感覚」によって維持されてきたと言う。また、韓国で生まれ育ち、日本に帰化した呉善花は、「ーーー日本人の行動基準を律しているのは、何が善か、何が悪かという道徳律ではなく、何が美しいか、何をするのが醜いかであり、総じてどう生きる(死ぬ)のが美しいかという美意識であるーーー」と言っている。
外国人に指摘されると、改めてそうだと気づかされるが、確かに日本人の善悪の判断に「それは美しいことか、汚いことか」といった感覚が横たわっている。日本人は「そんな汚いことをするな」、と子供に教える。悪とはどんなことか、感覚でわからせるようなところがある。あの男は汚いとか、薄汚い男だといえば、男の嫌悪すべき人間性がイメージされる。日本で人間が汚いという評価は、嘘つきと並ぶ道徳的にほぼ最低の評価となる。
日本人には、総じて美しいことが善であるといった(無意識の)感覚がある。清らかなこと、純粋であること、けじめがあること、潔(いさぎよ)いこと、誠実であること、嘘をつかないこと、人を信じること、言い訳しないことなどは美しいことであり、それはそのまま道徳的に良いことである。逆に法的に問題なくても、行為に醜いものが感じられた場合、日本人の是とするところにならない。
日本には確かに善悪を美で判断する倫理感覚が存在するが、外国ではどうだろうか。キリスト教圏にあっては、倫理、道徳の基礎にあるのは宗教であるとの確信があるだろう。そしてキリスト教倫理は美意識を根底にして成立しているわけではない。それでは日本にある美の倫理は、特殊な普遍性のないものだろうか。サンソムはこれが日本の大いなるユニークさだと言い、呉善花はこうした倫理のあり方は日本以外には見られないと言う。
しかし、必ずしもそうではないのではないか。英米人の道徳感情の根底に「fair(公正)かunfair(不公正)か」が横たわっている(と思う)が、「fair」には「美しい」という意味もある。また、「dirty(汚い)」には「dirty trick(奸策)」といった用法に見られるように、「卑劣な」という意味もある。私は、倫理を美で判断するのは人間の普遍的な感情であるが、外国においては宗教の発達が著しく、これが完全な倫理の基礎を提供し、道徳律として論理化されたので、本来の美意識による判断が希薄化したのではないかと思う。
日本では普遍的な美の倫理がそのまま継続して現在に至っている。それには日本の伝統宗教である神道の影響があった。神道は古来の日本人の生活感覚であるが、実は神道の根底にあるものが美である。神道には論理化された教義はないが、心身を清浄にし、「清明正直」、すなわち、清く、明るく、正しく、直く生きることを理想とする。神道は美、特に清浄の美を根底にもつ宗教であるといえる。
真善美は一つであるという深遠な哲学的見解もある。善(よいこと)は美(うつくしいこと)であるという、日本の「美の倫理」に自信をもって我々は世界の中で生きていきたい。
(2019年2月8日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |