日本文化の大きな特色として、「言挙げ」しないことをあげたい。「言挙げ」とは言葉に出して言い立てることである。日本の社会、文化は伝統的に言葉による強い主張を控える傾向をもつ。
日本には「奥ゆかしい」という美意識がある。自己の能力や業績を主張するのは、はしたない。控え目をよしとする。日本で「自己主張が強い」という評価は決して称賛ではない。
日本人は相手の非を論理的につき詰めて攻撃することを好まない。和を好む日本人の感情が理を超える。理は酷薄である、あるいは理屈は浅薄であるといった感情がある。ゆえに日本人は、概ね欧米流のディベートの敗者となる。
日本人は話すことよりも聴くことが大事だと考える。それを教える比喩として、「口は一つだが耳は二つある」という。松下幸之助は聴くことを最も重視した経営者であった。松下はよく聴くことによって、経営の神様といわれるようになった。古来、日本人が聖者として尊敬した人は、決して雄弁な指導者ではなく、人の言うことをよく聴いて直ちに深い理解をしてくれる人であった。
言挙げしない日本の国の伝統は古い。古代の歌人柿本人麻呂は詠む。「芦原の瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども言挙げぞ我がする 言幸く さ幸くませと‐」。日本は言挙げせぬ国だが、自分はあえてすると言っている。古代、言葉には呪力があると信じられており(言霊)、むやみな言挙げは慎まれた。
日本文化に大きな影響を与えてきた禅は、言葉によって真理の伝達が可能だと考えない。禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)である。技術での熟達、正しく生きる術の獲得、創作力といった事柄は、すべて「言葉で伝え難きもの」である。
武士道も日本文化の形成に力があった。この武士道が多弁を嫌う。特に言い訳を最も嫌った。自己の非を認めた場合、言葉による申し開きをせずに黙って責任をとる(切腹する)のが武士道だった。言い訳をいさぎよしとしない武士道的美意識は日本にまだ残っていると思う。
日本人は、真の認識は言葉では伝わらないと考えているところがある。そして日本の歴史の中に、「至誠」は言語を越えて通じるという信仰も生まれた。
このように、言挙げを控える文化をもつ日本は温和で、争いは少なく、住みやすい、よい社会を形成してきた。しかし世界の国々をみると、ほとんどが言挙げする国である。ヨーロッパ、アメリカ、中国、インド、韓国などすべてそうである。言挙げする文化が世界標準であり、日本が異なっている。
ここに世界の中で生きる日本の最大の問題がある。明治の開国から現在まで、自国が言挙げしない文化のゆえ、日本は諸外国に対して日本の主張をあまり言挙げしないできた。これが日本の国益を損なってきたと思わざるを得ない。
日本の国益のために、そんなことは国がやるべきだなどと言わずに、国民個人が日本の主張と正当性を、世界のだれもが納得するわかりやすい良識のロジックで、いろんな機会に言挙げしていくことが必要である。そして、これを世界共通語の英語でやる必要があると思う。
(2019年1月8日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |