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   2006年1月15日号
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<彰古館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ 48>
1枚の写真に込められた明治陸軍衛生の博愛精神
日露戦争の記録(4)
 今回確認された習志野捕虜収容所の写真には詳細な説明文が添付されていましたが、あまりの達筆で、解読には多くの時間を割くことになりました。
 解読が進むと、そこにはまさに明治の歴史の一部を切り取った貴重な内容が記載されていました。さらに説明文の随所には、異国に抑留された捕虜に対する、岡谷米三郎一等軍医の温かい心情が溢れていました。
 ここに揚げた一枚の群衆のシーンの写真は、説明が無ければただのスナップ写真にしか過ぎません。
 この写真は、国内のボランティア団体が習志野捕虜収容所に慰問に訪れた際に撮影されたものです。よく見ると、その中央に小さな女の子の姿が写っています。来所した日本人が連れて来た子どもです。印刷では分かりにくいと思いますが、写真に写っているロシア人捕虜達の視線はこの子に釘付けとなっているのです。
 改めて写真の説明文を読みますと「賀式場前に集える数多きの中に、ひとつ邦人(日本人)が愛児を伴い縦欄に来るるを見て、羨望に堪えざるや。捕虜は皆、これを囲み、あやして凝視する」とあります。
 捕虜達は、異国の小さな女の子に、故郷に残して来た自分の子どもの姿を重ねて感無量だったのでしょう。
 「彼等、祖国のために父母に別し、際しを残し、故国を去って、遠く絶東北緯の野に出陣するだけでも、既に悲哀を禁じ得ない。しかも、武運拙くして敵国の捕虜となり、ただでさえ淋しき秋の夕べ、夜雨粛々、過歴の声を聞けば、万感胸に溢れて、想いは故国の家族に及ぶ。事情の然からしむる所、慈仁の父母に別れ、最愛の妻子を残せし者、今、邦人(日本人)が和気あいあい、その籠児を・・・を見て、恍惚、歩を移すを叶わざること、まことに・・・なきに非ず」と、異郷の地の捕虜の心情を自分のことのように感じ、通り過ぎることも出来ずに女の子を凝視する姿を伝えています。
 この情景を見ていた岡谷軍医もまた「それこれを見るもの、彼等の心情を・・すれば、我が一滴の涙無きを禁ず」と述べています。捕虜を見つめる一人の軍医の目に映る光景も、涙で霞んでいたことが文面から読み取れます。この説明文の価値は計り知れないのです。

熱唱!!東 千晴さん(自衛隊OB)
歌謡浪曲ショーに500人が感動
 東 千晴さん(キングレコード)が恒例の「歌謡浪曲ショー」を11月20日の日曜日に東京新宿コマ劇場の隣の東宝会館で開催した。東さんは自衛隊中央病院高等看護学院を卒業後、同中央病院に勤務し陸曹長で退職して、平成3年「俺の人生浪花節」で歌手デビューし、平成5年2月カンボジアPKO第1次派遣隊のタケオ宿営地で隊員の慰問を行った。
 今回9回目となる、このショーに東千晴後援会の堀深会長(東京地連援護協力会名誉会長)をはじめ、松本留吉(同副会長)、深山明敏(東京都隊友会長)、佐山@@(元陸自小平学校長)、正木保(元東京地連副部長)、宮本博克(元神奈川地連副部長)、陣内透(元陸自普通科連隊長)、菊池真理子(東京地連女性協力会副会長)ほか東京地連援護協力会、東千晴後援会の会員約500人が会場入りした。中には、この「東ちはる歌謡浪曲ショー」を楽しみに、毎年バスをチャーターして団体で足立区の方から来ているという方々もいた。
 恩師・矢崎一雄(作曲家)の指揮のもと、青木和人とピンクパンサーのフルバンドをバックに「俺の浪花節」「演歌一代おんな節」で開幕で、ヒット曲「夜明けの波止場」や発売中のアルバムで好評の「水戸街道」、そして新曲「男じゃないか!」などのオリジナル曲を披露した。あの歌この歌メドレーでは、「川の流れのように」「アンコ椿は恋の花」「河内おとこ節」などを客席に降り、お客さんと握手をしながら唄い会場が大変盛り上がった。
 歌謡劇場では、戦争で引き離された母と子をテーマにした「出撃前の母と子」と「蛍の魂」をセリフ入りで演じ、会場の中からすすり泣く声も聞こえた。今年は、戦後60年。改めて世界平和の貴さを感じさせた。
 後半は、義経と静御前の恋物語、新曲浪曲「悲恋静」を曲師・伊丹秀夫先制も加わり、三味線とバンドをバックに約30分間演じた。折からのNHK大河ドラマ「義経」と重なり、ドラマをそのまま見ているようで、会場は水を打ったような静けさの中、涙と感動の大熱演だった。
 ラストは、カンボジアPKOタケオ宿営地を慰問した際、現地で作った記念曲「星よ風よ」を唄い、約2時間の東千晴歌謡浪曲ショーの幕を閉じた。

頑張っています  新しい職場
活躍するOBシリーズ
東京海上日動火災保険(株) 吉野俊一
吉野氏は平成16年7月、岩国航空基地隊を2海佐で定年退職。56歳。
 「ピーポー、ピーポー」救急車のサイレンが鳴り響く度に、私の耳はダンボと化し「事故でなければよいが」と祈る毎日。
 私の肩書きは「交通賠償主任」、交通事故で怪我をされた方の事故賠償業務が仕事です。この仕事は就職援護室から紹介して頂きましたが、車社会の重要な仕事と考え、誇りと使命感に燃え毎日を頑張っています。
 就職して1年半ですが、社会の複雑さ、事故の恐ろしさを毎日感じています。事故には加害者、被害者、親族、職場など多くの人達が関係しており、仕事の完結には関係者と良好な関係を構築する必要がありますが、加害者・被害者は相対する立場でもあり、大変な気配りが必要です。また、一般的社会常識では理解しがたい面もあり、対応に苦慮する毎日です。このためストレスによる胃痛を訴える同僚も見受けられます。
 前職は国防という目的を持つ階級社会であり、意識の根底が同じこともあり、常識で理解できる人が大半でした。一方、事故に遭遇する人は、国籍、性別、年齢、仕事、性格等が異なり、社会概念の変化、不況、被害者常識等も加わり、様々な価値観を持っている人がいることを知りました。しかし自衛官向きの仕事であるとも思います。何故ならば、自衛官故に正義と奉仕の心で接することができるからです。
 さて、今後定年を迎えられる皆様に、私が実践してきたことをご紹介します。「定年を最高の気力・体力で迎えることです」。私は定年5年前から運動を始め、今も運動を続けています。仕事も定年6年前から忙しい初めての各配置に赴任し、業務に追われながら定年、そして入社した感じがします。年とともに気力・体力は低下しがちですが、「定年はゴールではなくスタート」と考えるべきです。新しい職場では、体験し得ない苦しみ悩みが必ずあります。それを乗り切るには今以上の気力・体力が必要です。いわゆるタフになることです。2007年問題が近付きつつある現在、再就職は益々厳しくなることが予想されます。自分を厳しく見つめ直し、来るべきXデーに臨んで下さい。「GOOD LUCK!」

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