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   2003年3月15日号
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結婚式での『プレゼント』
防衛庁管理局会計課  杉浦 和久・千春
 先日、2月11日建国記念日に京都の平安神宮で、約1年半交際していた彼女との結婚式を親族で行いました。式場を平安神宮としましたのは、2人とも大阪出身であるため親族が集まりやすいことと、私が以前平安神宮を見物したとき挙式を終えた着物姿の新郎新婦を偶然見る機会があり、その姿に感動し、将来は絶対ここで式を挙げたいと決意していたからです。
 当日、天気予報は雨。京都に着いてからすぐ雨が降り出し、雨降って地かたまるとの諺はあるものの少し暗い気分になりました。しかし白無垢姿に変わりつつある彼女を見たとたん、天気のことなど全く気にならなくなりました。12時30分に神殿に入り、緊張の中祝詞を聞き、誓詞を読み上げ三々九度をし、意外とあっけないほどに無事挙式を終えました。その後、披露宴を行うまでの約30分間神殿横の中庭で記念撮影をしていると、平安神宮にお参りに来ていた一般の方々が私達の姿に気づき、中庭の柵の外に、いつの間にか20人ほど集まり写真を撮っていました。遠くから見るだけでは納得できない一部の方々は、柵をのりこえ無理に中に入ろうとして巫女さんに注意されてしまうなど、嬉しいやら驚くやらでした。
 そのような人々も、やがて出ていかれましたが、すぐに別の方々が中に入って見えられました。一瞬、挙式をされる別の親族の方々と思ったのですが、そのまま私たちに近づいて来られ、その中の1組の外国人夫婦が一緒に写真を握って欲しいとおっしゃられたのです。突然のことで私たちはびっくりしながらも、良い記念と思い写真を撮ってもらいました。
 ここまでの出来事は、このような場所ではよくあることかもしれません。しかし、以下に述べるようなことはあまりないのではないでしょうか。
 まず、その外国人御夫妻に同行されていた日本人の男性から「こちらはドイツ空軍の中将御夫妻なんですよ。」と言われ驚きましたが、私達はなんとか片言の英語で「私たちは防衛庁の事務官です。」と答えました。(最初に答えたのは勇気ある妻)すると、さらに後ろから「こちらの方々は航空幕僚長御夫妻ですよ。」との声が。「えっ!」と振り返るとそこには写真でしか拝見したことのない遠竹郁夫航空幕僚長がいらしたのです。「何故ここに航空幕僚長が?」驚きと緊張の連続で訳がわからなくなりながらも航空幕僚長にご挨拶をいたしました。
 実は、ドイツ空軍の中将とは、ゲルハルト・バック独空軍総監(航空幕僚長)で、2月9日より14日まで、航空幕僚長の公式招待で来日されたのです。この日は、航空幕僚長が同行されて京都に来られ、その際、平安神宮にも立ち寄られ、偶然にも式を終えた私たちを見つけられたのでした。
 私はバック中将はもちろんのこと、航空幕僚長にもお会いしたことはございません。しかも、皆さん私服でいらしたものですし、さらに、式以来私は緊張しっぱなしだったものですから、全く気づきませんでした。恐縮しております。航空幕僚長も偶然会われたカップルが私達防衛庁職員だったことで大変驚かれ、中将と今日は良い日だったと話されたと聞き感激致しております。
 両夫妻が平安神宮の回廊を曲がられたとき、まず両夫妻の目に飛び込んで来たのが妻の白無垢姿だったそうです。「あら、お人形さんにそっくり!」実は前日、航空幕僚長の奥様が中将の奥様に白無垢の花嫁人形を日本の想い出にプレゼントされておられたのでした。偶然にも、妻の白無垢姿が航空幕僚長の奥様が一生懸命選ばれた白無垢の人形と重なったのです。本当に不思議です。中将の奥様が是非、記念写真を一緒に撮りたいとおっしゃって下さいまして、ご一緒に写真を撮りました。そして、両御夫妻から英語と日本語で「おめでとうございます。」との温かい祝いのお言葉もいただきました。そんな私たちのやりとりに両親・兄弟・親戚も大変感激し、平安神宮の関係者の方もいい映像が撮れたと喜んでくれました。
 すばらしい出来事でした。否、出来事というより「プレゼント」でした。私たちの新しい門出に、このような思い出に残るすばらしいプレゼントを贈っていただいたバック総監御夫妻と航空幕僚長御夫妻に心から感謝申し上げます。そして、これから先幸せな家庭を築いて行くことがプレゼントに応える道であると写真を見ながら2人で語り合っています。

彰古館往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校 シリーズ(14)
軍医学校五十周年記念塔(3)
(5)
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(7)
(8)
 彰古館に現存していないレリーフ(5)(写真上から)は、明治37年(1904)日露戦争での軍医の姿です。日清戦争で得たノウハウを遺憾なく発揮したといいます。
 (6)は昭和4年(1929)に昭和天皇が新宿の軍医学校新庁舎に行幸された際の情景です。やはり、光線をもって天皇をシンボライズしたものです。彰古館には、各新聞社が軍医学校を訪れた天皇陛下を撮影した写真が、一冊の立派なアルバムになって残されています。
 (7)は同じく昭和4年、軍医学校教官の小泉親彦一等軍医の、昭和天皇へ御進講のシーンです。「生活習慣の西洋化が、日本人の体格にどのような影響を与えるか」といった内容でした。小泉軍医はこの一件から、国民の体格改善を主眼に厚生省の発足を立案、昭和19年(1944)まで厚生大臣を務めたのです。このレリーフも現存しています。
 (8)は、昭和6年(1931)満州事変衛生部隊の近代装備を表した物で、衛生飛行機やX線自動車、病院用天幕といった現在でも通用する立派な装備の数々です。
 その他、各戦役で亡くなられた衛生部先輩方を靖国神社に奉った図案があります。軍医学校乙種第六期生が、卒業十周年の記念にと軍医団に300円を寄付したことが元になっています。当初、殉職した軍医達全員の名簿のレリーフを製作する案が転じてこの図案で寄贈されたのです。
 また、陸軍軍医団長陸軍軍医総監小泉親彦の識で「明治19年からの卒業生は6,165人、研究論文が約二千有余、幾多の戦役を経て、五十周年をかくも盛大に執り行えたことは感激である。先輩方の業績を背負い、国家の所要に応えよう」と言った趣旨の碑文も刻まれています。
 記念塔のレリーフのうち都合4枚は、今でも彰古館で見ることが出来るのです。

『得てに帆を揚げよ』(上)
娘は元自衛官
第9特科連隊 3陸佐  穗高 均
 平成6年当時、私は第9特科連隊の第2科長として勤務していた。8月のある日、突然に娘(次女:高校3年生)が「お父さん、私自衛隊の試験を受けることにしたから…」と言う。高校入学以来、将来は福祉関係の仕事に就きたいという夢を持ち、特に、2年生になってからは、介護の仕事をしたいという具体的な目標を定め、教材等を取り寄せて色々と検討していたこともあって、てっきりその方向に進むものとばかり思っていた。【3人の子供には、『進路は自分で決めろ。決めたことについては親としてできる限りの援助をする。』と、常々言い聞かせていた。】妻にも、「長女とか末っ子とかは関係なく、子供達がやりたいと思うことをやらせよう。1度や2度の失敗(挫折)はあるだろうから、その時にこそ親として最大限フォローをしてやろう」と話し合っていた。
 そういうこともあり、自衛隊の試験を受けるという次女の突然の申し出にビックリして「福祉とか介護の仕事をしたいという希望はどうしたんだ」と問い返したのだった。「介護の仕事は、将来やってみたい仕事であることには変わりないけど、それは30歳になっても40歳になってもできる仕事だと思うの…今まで、お父さんが自衛官であっても、自衛隊の存在さえも特別考えたこともなかったけど、阪神大震災での救助活動を見て自衛隊の必要なことがわかったの…自衛官となって、自分の力を試して見たいと思ったから、自衛官になるには今しかないし…友達も受けると言うから…」
 真っ向から反対されるものと思ったらしく、娘は動機について色々言った。「友達感覚で受けるという程度だったら、お父さんは反対だなァ」と言いつつも、娘の制服姿を思い浮かべながら「まァ、何事にも挑戦してみることもいい勉強になるだろうから…」暗黙の了解をした。
 早速、地連の担当者に受験状況について問い合わせたところ「曹候補士は、岩手で例年良くて1名しか合格していない。今年の受験者は70名以上になるだろう」等、気の遠くなるような厳しい状況であることが判った。《娘の制服姿も絵に描いた餅であるような気がした》高校入試で志望校に入れなかった前科を持っている娘だっただけに、受験が伴う2度目の失敗(挫折)をミスミスさせていいものかという、親としてのとまどいもあったが、入試の失敗は見事に跳ね返し余りある高校生活を送ってきた娘の頑張っている姿を見て、敢えて厳しい状況でもこのまま娘の希望どおり受験させることに決心した。
 9月中旬:1次試験を終了した日「どうだったか。(?)できたか(?)」という私の質問に「チョー難しかった。絶対受かりっこないワ、でも、お父さんを見直したよ。あんな難しい試験に合格して自衛隊に入ったんだネ」。親父を茶化す余裕を見せた。「お父さんの頃は、健康体であれば誰でも入隊できたんだ。試験も簡単だったし」ともいえず、「そうさ、昔から競争率が激しく、選ばれた者しか入隊していないんだヨ」と答えておいた。
 9月下旬:すっかり諦めていた娘に1次合格の通知(2次試験の案内)があった。2次試験の主体は個別面接である。たまたま、連隊幕僚として幹部候補生等選抜試験のための面接指導をした経験から、入(退)室要領等のごく一般的なことについてアドバイスしてみたものの、演習等で家を留守にすることが多く、思っていた程の指導もできずにアッというまに試験日を迎え、「ハキハキと思ったことを素直に答えればいいよ」と言って送り出した。
 11月下旬:娘は、運を天に任せるという程度の気持ちだった様であるが、何と曹候補士第5期生としての合格通知が届いたのである。
 ※3回にわたって連載します。(編集部)

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