第33代推古天皇(554-628)は、日本史上初の女性天皇である。飛鳥時代を代表する天皇の一人であった。推古天皇が即位した593年から、奈良時代の始まる710年までの約百年間を飛鳥時代と呼ぶ。
飛鳥時代は古代国家日本の文明開化が進み、興隆した時代だった。仏教伝来に伴う新文化が成立し、豪族の連合体だった国家(大和政権)の中央政権化が進んだ。大陸に出現した強大な統一国家、隋・唐の律令制度に学び、律令制国家の建設が進んだ。朝鮮半島との関係も深く、国際色豊かな文化が成立した。
推古天皇の時代(推古朝593-628年)の人物として聖徳太子が名高い。聖徳太子は推古朝の摂政として多くのことを成した。まず「冠位十二階」を定め、氏族でなく個人の能力による官吏登用の道を開いた。604年、和を尊重する国の基本法として「十七条憲法」を定めた。607年遣隋使を派遣し、大国隋(後に唐)との対等な国交を開いた。太子はまた仏教を深く理解し、国家として仏教を振興した。
推古朝で政権の中枢にあったのは、推古天皇、摂政の聖徳太子、そして大臣(おおおみ)蘇我馬子の三人であるが、国政は主として蘇我馬子と聖徳太子に依ったという見方が根強い。中でも大臣蘇我馬子は実質最高権力者であり、自分の姪を天皇に立て、思うままの政治を行った、と。しかし、近年歴史学では推古朝の政治に推古天皇の行ったことをもっと重視し、評価する見方が強まっているように思われる。
歴史書を読むと、推古天皇がこの時代非常に存在感のある女性だったことがわかる。推古は漢風の諡号で、和風諡号を豊御食炊屋姫(とよみけのかしきやひめ)という(以降、炊屋姫(かしきやひめ)と記す)。炊屋姫は第29代欽明天皇を父とし、蘇我氏の堅塩媛(きたしひめ、蘇我馬子の姉)を母として生まれた。18歳で第30代敏達天皇の妃となり、2男5女を儲けた。585年敏達天皇が没し、用明天皇、続いて崇峻天皇が即位したが、政権は安定しなかった。用明天皇は病弱で在位2年で死去、崇峻天皇は蘇我馬子と決定的に対立し、馬子に殺されてしまった。こうした皇室の危機にあって、群臣はこぞって炊屋姫が天皇として立つことを望んだ。即位した推古天皇は75歳で没するまでの36年間安定した長期政権を実現し、飛鳥時代の政治・文化の隆盛をもたらした。
女性であっても群臣が炊屋姫を天皇として推戴しようとした大きな理由は、炊屋姫が聡明であり、非常に優れた政治的判断力をもつ女性であることを皆よく知っていたからである。
聖徳太子の文化、外交における成果も、推古天皇の治世の良さに帰せられるものが多いのではなかろうか。宗教戦争のない社会も、推古天皇の治世で実現している。推古天皇は594年「仏法興隆の詔」を出し、国家の方針として仏教を受容することを宣言した。一方、推古天皇は607年「敬神の詔」を出し、先祖の信仰を継承し、伝統の神々を祀り続けることを誓い、神道を維持することを示した。以後日本は今日まで神道と仏教が平和に共存し、神仏習合する社会となっている。
『日本書紀』に、推古天皇は「姿色端麗 進止軌制」と記されている。容姿端麗で、振舞が端正であった、という意味である。美しく聡明で、指導者にふさわしい人間力をもった女性の姿が浮かぶ。
(令和5年10月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii-nihon.themedia.jp/)などがある。 |