「誠実であること」は今なお日本人が最も重視し、最も好む人間のあり方ではないだろうか。日本人は人との信頼関係を非常に大切にするが、誠実が信頼関係の基礎である。行動規範に誠実を掲げる日本企業も多い。日本人は男児によく「誠」の字を含む名を付ける。戦後長い間、男児の名として一字の「誠」は名前ランキングのトップにあった。
「誠(まこと)の心」は歴史始まって以来、日本人が求め続けてきた心である。「まこと」は「真事」あるいは「真言」であり、偽りでない本当、真実のこと。古くは「清き明き心」として捉えられ、中世においては「正直(せいちょく)の心」として捉えられた。「まことの心」は古来の神道の理想「清明正直」の心そのものであった。
儒教も誠を重要な徳目として挙げる。『大学』では「意を誠にする(誠意)」を説き、『中庸』で「誠は天の道なり、これを誠にするのは人の道なり」と言う。儒教を朱子学として大成した朱子は、誠を真実で邪心のないこととし、これが天の理法であるとした。
誠は日本の儒教で特に重視された。伊藤仁斎は『論語』、『孟子』に聖人の教えを見いだしたが、仁斎がその実践倫理の根本に捉えたのが「忠信」であった。「忠」も「信」も「まこと」であり、「忠信」は「誠実」とも言いかえられる。「忠信」は「人に接するとき、あるいは事をなすとき、欺かず、詐らず、真実で、純粋な心でかかわること」であり、忠信(=誠実)が仁(=愛)であるとした。
山鹿素行も誠を重視した。素行は「やむを得ざる、これを誠という」と言う。他者への誠実は、心の底より抑えがたいものとしてあるべきもので、それが誠であると。
幕末において誠の思想は頂点に達した。吉田松陰は「天道も君学も一つの誠の字の外なし」と言う。松蔭は君のため、国のために思うところがあっても、それを決断をもって実行に移さなければ誠ではないと考え、実行した。幕末の日本社会を動かした道徳は「至誠」であった。
誠(まこと)は古代より現代まで日本人が重んじてきた日本の心であるが、誠実に大きな価値を置き、これを尊ぶ精神は実は世界的なものである。
「誠実さと信念だけが人間を価値あるものにするーーゲーテ」、「大事業というものは厳しい誠実さの上にだけ築かれるーーカーネギー」、「誠実さ。深く偉大で純粋の誠実さこそ英雄的な人の第一の特色であるーーカーライル」、「誠実でなければ人を動かすことはできないーーチャーチル」、「すべての真の偉人の第一の美徳は、誠実であることだーーアナトール・フランス」、「私たちは成功するためにここにいるのではありません。誠実であるためにここにいるのですーーマザー・テレサ」。
世界的な誠実と日本の誠実は概ね共通するものの、意味の違うところがあることも我々はよく知る必要がある。米国・カナダで30年グローバル企業の教育研修事業を行ってきた渥美育子氏は、「誠実」と訳される「Sincerity」の真の意味は言行一致であると述べている。日本人が「誠実に対応している」と言うとき、それは(誠意をもって)真剣に取り組んでいるということで、相手の望む結果を出すことを必ずしも意味しない。誠実に関するこのニュアンスの違いが、日米貿易摩擦の溝が埋まらない背景にあったと。
世界に生きる我々日本人は、世界の異文化をよく知り、国々の背骨を形成している道徳、倫理、宗教の考え方をよく知る必要がある。
(令和3年10月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |