杉本鉞子(えつこ)は1873年(明治6年)、旧越後長岡藩の家老稲垣茂光の末子として生まれ、武士の娘として厳格に育てられた。26歳のとき兄の友人で米国に住む貿易商杉本松雄と結婚するために渡米。二人の娘に恵まれ12年幸福に暮らしたが、夫の事業失敗を期に帰国。その直後夫が急死。1916年アメリカを懐しがる二人の娘を連れて再渡米。ニューヨークに住んで執筆した自伝的エッセイ『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』がベストセラーとなった。1920年から7年間コロンビア大学で日本語と日本文化の講座をもつ。1927年帰国し、1950年76歳で没した。
『武士の娘』は単なる自伝にとどまらず、日米両文化の生活を体験した杉本鉞子の生きた比較文化論ともなっており、随所に日米両文化に関する深い考察が見られる。鉞子はアメリカ文化を理解し、成長していくが、日本の伝統的武士文化を否定せず、それに誇りと愛情をもっていることが伺える。
鉞子は子供の頃から女が男に劣ると教え込まれ、それを疑ったことはなかった。しかし東京に出て女学校で学ぶうちに疑問をもつようになった。家では神様を祀る神棚のことはすべて男の手でなされ、女は穢れているとして手を触れることができなかった。あるとき父に、祖母でも穢れているのか、祖母は父があれほど大事にしている人だからそんなことはないでしょう、と問うた。父は、そういうふうに考えればいいんだよ、けれども、小さい時から教えられた女の道というものを忘れてはなりません。あの教えこそ、何代も何代も時が経つ中にお祖母さまのような立派な婦人を造ってくれたものなのだよ、と鉞子に答えた。
アメリカで生活して、鉞子は日本の文化は感情を表に出さないことをよしとする文化だと強く思うようになった。日本人は過去幾代にもわたって、感情を強く表に表すことは品位を落とし、威厳を損なうと教えられてきた。感情のすべてに、礼儀作法という枷をかけており、特に妻は厳しい礼儀作法に従って身を処していくことを大きな誇りとしている。この礼儀作法に従ってこそ得られる威厳と謙遜が、最大の栄誉とされる。
そして、婦人が自由で優勢なこのアメリカで、威厳も教養もあり、一家の主婦であり、母である婦人が金銭に関する権限と責任を与えられておらず、夫に金銭をねだったりするのが信じられないと書いている。日本では古い習慣に従って女は一度嫁すと、夫はもちろん、家族全体の幸福と責任をもつよう教育されている。妻は家の主婦として、自ら判断して一家の支出を司っていたと記している。
祖母はアメリカに行く鉞子に、14歳でこの家に嫁いだ体験を言い聞かせたが、鉞子は武士の躾をうけた者は、どのようなことにも処してゆけるものだということを悟らされたという。
鉞子は武士道文化に誇りをもっているが、一方的な礼賛はしていない。日本の男性は伝統の絆に縛られて、その顔に仮面をかぶせ、唇をつぐみ、動作をはばまれて、その胸にあふれる愛情を表現する機会に恵まれていないことを残念に思う、と書いている。
鉞子はアメリカを素晴らしい、忙しい、実際的な国だと言い、アメリカが日本によく似ていることに気づいたという。そして最後に、西洋でも東洋でも人情に変わりないことを知ったと記している。(令和3年1月15日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |