「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」といった江戸期の落首(匿名の狂歌)がある。徳川家康は「狸親仁(たぬきおやじ)」といわれ、江戸幕府を開いた神君家康も、日本の庶民の人気と評価は、英雄信長、秀吉に及ばないようである。
しかし、私は徳川家康こそは不世出の偉人であり、世界的水準の偉大な軍人政治家だったと思う。
家康は戦国時代の無秩序に終止符をうち、太平の世を開いた。家康がつくりあげた統治システム(多次元の幕藩制複合国家)はその後長期にわたって有効に機能し、日本は270年に及ぶ戦争のない持続的な安定した社会を謳歌した。
江戸は繁栄し、元禄の頃(17世紀末)には人口100万を擁する都市となった。同じ頃ロンドンは46万、パリは18世紀末で55万人に過ぎなかった。江戸は、治安の良さと公衆衛生の先進性で世界の都市を凌駕していた。東京(江戸)の基礎は、埋め立てや上下水道整備を含めた家康の都市計画によって造られた(注1)。
日本の社会は安定し、人口が増えた。日本の人口の世界シェアが最高になったのは元禄の頃であり、5%に達していた。卑弥呼の弥生時代は0・3%、現在は2%である。磯田道史は、おそらく将来、江戸時代は日本の栄えた時期として、憧憬の念をもって回顧されるだろうと言う(注2)。
家康は「海道一の弓取り」といわれるすぐれた武将だったが、信長や秀吉と異なり好学の人で、歴史や哲学の書に親しんだ。知識欲と独創性があった(注3)。
山内昌之は、家康ほど多彩な人材の登用にたけた政治家は歴史に類を見ないと言う(注4)。配下の武将は皆家康に心服していた。家康が登用した人材の中には、外交政策のアドバイザーとなったイギリス人ウイリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人ヤン・ヨースティンらもいる。家康は、「人の価値がわからないのは、すべて自分の智が明らかでないからだ。才能や知恵ある者を使いこなすことができず、役に立たない者とのみ国政を議論してはならない」と言う。衆に抜きんでた智慧と人間力をもつ者のみが人を使うことができる。家康はそういう人だった。
家康は次のような言葉を残している。「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくが如し。いそぐべからず」、「不自由を常と思えば不足なし」、「堪忍は無事長久の基(もとい)、怒りは敵と思え」、「勝つことばかりを知りて負くることを知らざれば、害その身にいたる」、「おのれを責めて人を責むるな」、「最も多くの人間を喜ばせた者が、最も大きく栄える」、「大事を成し遂げようとするには、本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ」、「及ばざるは過ぎたるより勝れり」。何という深い智慧に満ちた言葉かと思う。特に、「及ばざるは過ぎたるより勝れり」に家康の深遠な経験知をみる。
家康は晩年、皇室と西の勢力が結びついたとき徳川幕府は倒れると予言した。250年後、歴史はまさにそのように進行した。家康の叡智にはそれが見えていたのである。
江戸時代、近代科学はないものの、文化、社会は成熟し、近代が静かに準備された。江戸と明治は連続している。近代日本の起点を明治維新ではなく、むしろ家康の開いた近世の江戸システムに求める見方に共感する。
注1、3、4『日本近現代講義』山内昌之・細谷雄一編著より
注2『日本史の内幕』磯田道史著より
(令和元年11月1日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |