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自衛隊ニュース   882号 (2014年5月1日発行)
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防衛協力の輪、一層拡大
モンゴル 国防相 米海兵隊総司令官が訪問
小野寺大臣

「模範となる関係」
 小野寺防衛大臣は4月17日、防衛省でモンゴルのダシデンベレル・バトエルデネ国防大臣と会談した。
 会談では、東アジアの地域情勢認識や安全保障政策を説明し意見交換が行われたほか、PKO要員を派遣している南スーダン情勢、自衛隊がモンゴル軍に対し実施している能力構築支援、北朝鮮の状況などについて意見交換が行われた。
 不安定な北部地区から大量に難民が発生した南スーダンPKO。バトエルデネ大臣は、モンゴル軍は引き続き国連と連携して活動を継続していくとし、小野寺大臣も、自衛隊はモンゴルとも協力して派遣活動を続けると述べた。
 能力構築支援については、日本の施設部隊の派遣、病院建設に向けた協力要請がバトエルデネ大臣からあり、小野寺大臣は施設、衛生の陸上自衛官をモンゴルに派遣すると約束した。
 また、小野寺大臣はモンゴル軍主催の多国間共同演習であるカーン・クエストへ、今後も要員を派遣し自衛隊が積極的に関与すると述べた。
 北朝鮮については、モンゴルがハイレベルの外交関係を北朝鮮と維持していることから、「核、ミサイル、拉致を包括的に解決すれば友好的な関係が築ける、という日本の考えを北朝鮮に伝えて欲しい」と小野寺大臣がバトエルデネ国防大臣に伝えた。
 バトエルデネ国防大臣は、安倍晋三首相とモンゴルのエルベグドルジ大統領の緊密な間柄や、長年に渡る防衛大学校へのモンゴル軍からの留学を両国の友好関係の象徴として例示し、「引き続き未来を見つめ、発展していきたい。この地域において模範となる関係を構築出来ていると確信している」と日モンゴル関係を評した。
オスプレイ共同訓練も
 小野寺大臣は4月15日に米海兵隊総司令官ジェームス・F・エイモス海兵隊大将の表敬を受けた。表敬の場で小野寺大臣は、今期中期防中に自衛隊が導入するティルト・ローター機について、将来的に米軍のV-22オスプレイと共同訓練が行える施設を沖縄県外に整備する計画を説明し、エイモス大将は協力を約束した。


米海兵隊と実動訓練
水陸両用作戦
西部方面隊

 西部方面隊(総監・番匠幸一郎陸将)は、1月16日から3月4日までの間、米で米海兵隊との実動訓練を実施した。
 本訓練は「米の訓練基盤を最大限に活用して、日米共同による島嶼奪回及び着上陸後の作戦に資する訓練を実施し、島嶼作戦に必要な能力を向上させる」を目的として、質の高い機能別訓練及び総合訓練を計画通り実施し、日本国内では実施できない各種訓練を通じて水陸両用作戦に係る錬度を向上させることができた。
 また、米海兵隊の献身的な訓練支援により訓練を充実させるとともに、日米部隊間相互の信頼関係を更に強化することができた。
 機能別訓練においては、中隊規模のボートによる上陸訓練、第1偵察大隊との共同訓練、迫撃砲・重迫撃砲を含めた戦闘射撃、狙撃訓練及び統合火力訓練を実施し、自衛隊の錬度が米海兵隊と遜色なく来年度以降より高いレベルの訓練が実施可能であることを確認できた。総合訓練においては、日米共同の計画作成に引き続き、連隊本部及び1コ中隊を基幹とした部隊の上陸から上陸後の戦闘までの一連の行動を演練し、所望の成果を得ることができた。


鳥インフルで災派
第8師団(北熊本)

 4月12日に熊本県球磨郡多良木町及び相良村の肉用鶏農場で発生した高病原性鳥インフルエンザに伴なう災害派遣要請が14日午前零時50分に北熊本駐屯地の陸上自衛隊第8師団長(森山尚直陸将)にあり、隷下部隊が派遣された。要請内容は、鶏の殺処分、鶏舎等の清掃・消毒、殺処分後の埋却時に使用する消石灰(ウィルス飛散防止用)の輸送で、16日午前8時35分の撤収要請まで懸命の活動を続けた。

 14日朝には第8特科連隊が車両で消石灰計20トンを当該農場に輸送し、第8後方支援連隊が重機で消石灰の積み卸しを実施した。同日午後から16日朝にかけ当該農場で第8特科連隊が鶏の殺処分、鶏舎等の消毒、殺処分した鶏の袋詰めなどを行った。派遣規模は人員約延べ約880名、車両延べ約180両だった。


スキー観閲式復活
海自・大湊

 大湊地方隊(総監・槻木新二海将)は2月25日、釜臥山スキー場において平成25年度大湊地方隊スキー競技を実施した。当日は朝から天候にも恵まれ大湊地方隊各部隊から集結した各級指揮官及び選手団による白熱したスキー競技が行われた。
 開会式後には「スキー観閲式」が44年ぶりに実施され、受閲部隊指揮官(幕僚長・二川達也海将補)を先頭に1群から4群までの部隊が済々と観閲を受けた。式に参列した隊員も初めて目にする「スキー観閲式」に身の引き締まる思いで参加していた。
「スキー観閲式」は、大正14年(1925年)に大湊要港部司令官による「スキー観兵式」として実施されたのが最初であり、大湊地方隊発足後の「スキー観閲式」は昭和45年(1970年)の実施を最後に行なわれていなかったが、この度の大湊地方隊創設60周年記念で復活となった。


鯨捕りの歴史
〜日本人と鯨〜

 「鯨」といえば、給食で鯨を食べたという人も多いでしょう。日本人はいつから鯨を食べていたのでしょうか。もっとも始めは8000〜9000年前、長崎県平戸市のツグメノハナ遺跡の貝塚から鯨やイルカの遺骨が出土しており、弱って漂着した流れ鯨や浜に打ち上げられた寄り鯨を食べていたと考えられています。鯨やイルカを食べることのほかに信仰や儀式の対象として考えていたようで、平安時代には鯨は別名「エビス」と呼ばれていました。遠い国からやってきた鯨は人々に豊漁をもたらす神様と考えられ、日本全国に信仰が広く分布しています。そして室町時代末期から尾張や三河、伊勢といった地域で小規模だが組織的な鯨漁が行なわれるようになり、熊野(現在の和歌山県太地)や長崎や山口に伝わっていきました。そして戦国時代が終わりに近づくと武士から新たな道として鯨捕りを選ぶものが現れ、壮健な肉体を持つ武士たちが「鯨組」を組織し、日本の捕鯨産業の基盤をつくっていきました。それから70年後太地で大型の鯨を捕ることができる網とり式捕鯨が始まります。鯨に網をかけて弱らせ船から鯨めがけ手投げ銛を投げ、最後に剣でとどめをさす、これは日本独特の捕鯨法でありました。大型の鯨を捕るには組織的かつ多くの人員が必要とされ、1666年からの20年間で太地では家の戸数が4倍になったほどです。「鯨一頭七浦にぎわう」という言葉が生まれ、捕鯨をする港が潤うだけでなく周辺の村までもが恩恵を受けました。同時に危険が伴う捕鯨という仕事に安心して取り組めるよう、命を落とした遺族には生活保障をするなどの互助会機能もありました。チームの和を重んじた捕鯨は他国の捕鯨船では見られないシステムでチーム全体が家族のような存在でもあったのかもしれません。江戸時代には一大産業として発達し、鯨肉は庶民の口にも入るようになりましたが、明治に入ると捕鯨は衰退していきます。その理由は、鯨が捕れなくなってしまったためでした。原因は米国の捕鯨船団が鯨を次々と捕り、日本付近まで回遊してこなくなったためと考えられています。以後、近代捕鯨法が導入され、外国から捕鯨砲や銛を買い、捕鯨船を建造し、安全確実に捕れるようになりました。そのうちに、世界の多くの国々が鯨油を燃料にするためだけに捕鯨をするようになり鯨はお金を生み出す「商品」として捉えられてしまうようになります。象徴的な言葉として「捕鯨オリンピック」という表現がありました。当時、一年間に捕れる鯨の数を競わせるようなメディアの煽り言葉でした。近代捕鯨で減少してしまったことは反省しなければならない事実であり、生き物をいただくということに感謝と畏敬の念を持たなければなりません。そののち、1982年国際捕鯨委員会により商業捕鯨のモラトリアム(一時的全面停止)が決議され、日本は商業捕鯨から撤退します。そして、1987年調査捕鯨と小型沿岸捕鯨のみになり、現在に至っています。(三平梢)


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