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自衛隊ニュース   2008年11月15日号
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静岡地方追悼式
《板妻》
殉職隊員の冥福祈る
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 板妻駐屯地(司令・三浦直人1陸佐)は10月4日、静岡県防衛協会、静岡県隊友会及び板妻自衛隊協力会の協賛のもと「平成20年度静岡地方追悼式」を厳粛かつしめやかに行った。
 追悼式には12家族21名の御遺族をはじめ石川嘉延静岡県知事、斉藤斗志二衆議院議員(元防衛庁長官)ら部内外多数の来賓、富士、滝ヶ原、駒門及び当駐屯地の隊員代表併せて約400名が参列した。
 式は午前10時30分から行われ、執行者の三浦司令が「我々隊員一同、御霊の志を体し、生前残された数々の尊い偉業を受け継ぎつつ、御霊の厚き御加護を得て、今直面する新たな環境において、我が国の防衛という崇高な使命を果たすべく、日夜訓練に励み精強な部隊を日々育成し、真に役立つ部隊、そして日本国とりわけ静岡県民380万の皆様の負託に応え得る部隊を目指し、精進して参る所存であります。98柱の御霊の、永遠に安らかならんことを、また御遺族の皆様方はじめ御臨席の皆様、そして陸上、海上、航空自衛隊の前途に、益々の御加護を賜わらんことを心から御祈念申し上げます(要旨)」と追悼の辞を述べたのち、静岡県知事、斉藤衆議院議員、長田御殿場市長が挨拶を行った。
 引き続き、富士学校音楽隊の演奏する曲「慰安する」が静かに流れる中、御霊に対して御遺族をはじめ参列者が献花を行い、最後に儀仗隊の「弔銃」が悲しみを包むように響く中、参列者は殉職隊員の冥福を祈った。
 追悼式終了後、御遺族との会食にあたり、陸・海・空自衛隊を代表して海上自衛隊横須賀地方総監部管理部長の田尾輝雄1佐が挨拶を行ったのち遺族会長が参列者に対して謝辞を述べ、協賛団体を代表し静岡県防衛協会副会長の新田伸治氏が献杯の音頭を行った。和やかな雰囲気のうちに会食が進められ、御遺族は在りし日の夫や子供の勇姿に思いを偲んだ。

朝霞駐屯地も追悼式
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 朝霞駐屯地(司令・木野村謙一将補)は10月10日、埼玉県自衛隊殉職隊員(75柱)追悼式を、御遺族20家族27名、来賓及び駐屯部隊長ら75名の参加のもと実施した。
 この日は、天候にも恵まれて、追悼式典を金木犀の香りと爽やかな秋風の中、慰霊碑前で厳粛に実施し、殉職隊員に哀悼の誠を捧げた。
 また、昼食会で御遺族を労い、部隊と遺族間相互の連携の促進を図った。

S-61ヘリ「ラストフライト」
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 10月15日、館山航空基地で、S-61A型ヘリコプター国内最後の運用機8185号機のラストフライトが行われ、第21航空群司令・高橋忠義海将補以下館山基地の隊員及び来賓の見守る中、最後の雄姿を披露した。
 8185号機は南極での物資や人員輸送の任務に当たる輸送ヘリコプターとして三菱重工業株式会社で製造され、平成2年の第32次から一昨年の第48次までの計11回砕氷艦「しらせ」とともに南極地域観測協力支援に参加し、「しらせ」から昭和基地間の物資や人員の輸送及び南極観測隊員らに対する観測支援の任務に従事した。平成19年8月からは第101航空隊、今年3月の部隊改編後は第21航空隊で部隊運用され、輸送任務及び広報活動に従事し、この日耐用命数である5500飛行時間を全うし約18年の生涯に幕を閉じた。
 飛行作業を無事終了し、機長の田原尚典3海佐から第21航空隊司令・谷塚博己1海佐に対して最終飛行終了報告、引き続き谷塚司令から高橋群司令に対して運用終了報告が行われ、最後にその長年の活躍をねぎらい献花などが行われた。
 8185号機は今後館山基地内で展示される予定で、これからも基地の顔として親しまれることになる。

12普連で10km
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 第12普通科連隊(連隊長・岩村公史1陸佐)重迫撃砲中隊(中隊長・川口安彦3陸佐)は9月5日、10kmタイムレースを実施した。これは、中隊で計画された期に一度のタイムレースで、小隊対抗の競技会方式で実施している。
 隊員は、日頃から小隊毎に練成を実施し、小隊の名誉をかけて一丸となって取り組んだ。タイムを縮めた隊員、また目標に届かなかった隊員も、それぞれ全員真剣に取り組んでいた。
 なお、第2四半期の優勝は、第1小隊に輝いた。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ81>
北清事変と広島病院(4)
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 廣島陸軍予備病院に収容されたフランス兵たちは、診断の後、必要な手術等の処置を受け、随時退院しています。
 入院生活は快適だったようで、それは病院内の施設等を記録した写真でも理解できます。
 将校は少佐が2名、少尉以下が120名ですが、病室はストーブが完備された個室で、将校娯楽室なども設置され、ボランティア団体による奏楽などの慰問も実施されています。
 食事のメニューも残っていますが、フランス人の好みに合うように工夫され、ステーキ、赤ワインなども用意されていました。
 症例としては、外科では当時各国が採用していた小口径弾(主にドイツのモーゼル7・92mmに代表される8mmクラスの弾丸)による銃創が40名中32名、高初速の小口径弾による特性である貫通銃創患者が29名、盲管銃創が3名でした。
 そのうち、死亡1名、全治が11名、症状安定による退院が17名、最終的に広島から長崎仏国病院に転院したものが3名でした。
 貫通銃創患者は、出血も少なく、組織細胞の座滅も僅少でした。これは初めて小口径弾が大量使用された日清戦争時(1894〜1895)に芳賀軍医が表した「小口径弾について」という21万字にも及ぶ治験文の内容と一致します。
 芳賀軍医の論文では「小口径弾は初速が速く、そのほとんどが貫通銃創であり、体内に異物を残さないため傷の治りが早い」と述べています。実際に廣島陸軍予備病院では、観血治療(外科的手術)を行った例はありませんでした。
 対照的に砲創患者はほとんどが座滅創で、天津仏露共同病院で保存的治療の望み無しと、四肢の切断手術を受けた例が大半でした。砲創の特性は、単独の創傷でなく、数箇所に及ぶ例が多いので、重症患者となることです。また、組織の座滅創が深く大きいため、消毒も困難で化膿もしており、治療期間が長期化するのも特徴でした。
 退院となったフランス兵士は毎月2回、神戸からフランス郵船に乗船して帰国の途につきました。
 広島に最後まで残った者たちは謝恩会を開き、関係者を労し、帰国した者は、日本での厚遇を家族や海陸軍、国家に伝えました。
 彰古館の記録は、108年前の日仏友好の証なのです。

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