日中戦争(日支事変)は、1937年(昭和12)7月、北京近郊の盧溝橋事件に始まり、上海、南京、広東へ戦線が拡大して全面的な戦争となった。1941年日本は中国を支援するアメリカとの戦争(太平洋戦争)に突入し、敗れて1945年、アメリカ、イギリス、中国の降伏要求(ポツダム宣言)を受け入れ、8年の長きにわたる中国との戦争を終えた。
日中戦争は日本の最悪の戦争だった。当初日本は中国と戦争する意志はなかった。それが拡大し、ずるずると長期化し、泥沼化した。そして日中戦争が日米戦争をもたらした。
日中戦争が全面戦争になったのは、盧溝橋事件のひと月後に起きた上海事件(第二次)からである。蒋介石は国際都市上海で日本と戦争する決意を固め、先制攻撃をしかけた。中国軍は日本租界北西部で日本の陸戦隊を攻撃し、第三艦隊「出雲」、日本総領事館、日本人経営工場などを爆撃した。米内海相はこれに激怒、対中強硬論に転じた。日本政府は不拡大方針を放棄し、上海に大軍を派遣。中国との激戦となった。3ヶ月に及ぶ戦闘で中国軍は敗れて上海から総退却。20万の日本軍は戦死者8千人、戦傷3万人を出し、85万の中国軍は18万人の死傷者を出した。
上海を攻略した日本軍は余勢を駆って南京を攻略した。このとき日本軍は、非戦闘員や一般市民の大量虐殺を行ったとされる(南京事件)。蒋介石は首都を南京から重慶に移し、局地戦で不利になると奥地に撤退して応戦し、屈服することはなかった。
私が日中戦争を最悪の戦争だったと思うのは、この不毛な戦争をやめる大局的判断を日本の政府・軍部指導者ができなかったことである。すべて状況対応に終始し、戦略性がなく、国としてのガバナンスがなかった。和平にもちこむ機会は幾度もあった。しかし、ことごとく失敗した。和平の大きな可能性は上海戦後にあった。日本はドイツの中華大使トラウトマンを仲介として和平条件を提示。上海戦に敗れた蒋介石は日本の提示する和平条件を呑む気になっていた。しかし、その後南京が陥落。広田外相は国民世論に影響されて和平条件をかさ上げしたため、蒋介石の呑めないものとなった。近衛首相は蒋介石の回答に誠意なしとして、1938年4月「国民政府を対手とせず」との声明を出し、和平の道を閉ざした。
アメリカは蒋介石を支援し、イギリスと戦うドイツと同盟関係にある日本を敵視した。アメリカとの戦争を回避するため日米交渉が始まったが、アメリカは日本軍の支那(中国)からの撤兵を必須の交渉条件とした。このとき、豊田外相は支那撤兵を受諾すれば日米交渉は妥結できるとし、陸軍良識派の畑俊六、梅津美治郎の両大将も「米国の要求を入れて、支那事変(=日中戦争)を解決し、支那から撤兵するのが得策」と意見具申した。しかし、陸相東条英機は「陸軍としては駐兵問題は一歩も譲れぬ。退却を基礎とすることはできぬ。陸軍はがたがたになる。撤兵は支那事変の成果を壊滅させる」と言って支那撤兵を断固として拒否した。この陸相東条が首相となり、日本は日米開戦を決意する。日本は泥沼化した日中戦争の解決を日米戦争に賭けたのである。
日中戦争は泥沼化し、日本を滅ぼすことになった最悪の戦争だったが、日中戦争が侵略戦争であり、すべて日本に非があった(これが戦後の主流の史観)とは私は考えない。日中戦争は複雑であり、是非は戦争にかかわる数多くの事実を見て、判断しなければならない。これについては次回に述べたい。
(令和3年11月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |