上杉鷹山(1751-1822)は江戸時代中期の第10代米沢藩主。江戸時代最高の名君と評価されている。内村鑑三が英文著作に二宮尊徳、西郷隆盛らと共に『代表的日本人』として取り上げた5人の内の一人で、ケネディがアメリカ大統領に就任したとき、「最も尊敬する日本人は上杉鷹山だ」と語った人である。
上杉鷹山は17歳で米沢藩主上杉家の家督を継ぎ(鷹山は高鍋藩主秋月家から上杉家に入った養子)、窮乏のどん底にある藩財政の立て直しに渾身の努力を傾注し、これを成し遂げた。この時代、全国の藩で財政悪化が進んでいたが、特に米沢藩15万石の窮状は甚だしく、第9代藩主重定のときには、どうにもならない状態になっていた。巨額の負債の返済の見通しはたたず、重税にあえぐ領民は疲弊し、かつて13万人いた領民は10万人に減少していた。重定は一時領地を幕府に返上するしかないとまで思いつめたが、幼少より英明をうたわれる若い養子・鷹山に藩の将来を託すことにした。
鷹山の藩政改革は、大倹約の実行に始まり、農業の振興と農民の教道、人材の登用、家臣の意識改革、養蚕・織物業等の産業振興、国産品の奨励、難工事を伴う水利事業の実施、藩校創設と教育の振興、飢饉対策(備籾倉の創設)、老人福祉、間引きの習慣の廃絶など多岐にわたる。鷹山の「成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」の精神で、長期にわたり真摯に実施された。鷹山の晩年には、かつて11万両余に達していた藩の負債は全額返済完了し、領民の人心も改まっていた。鷹山が72歳で没したとき、「民は、自分の祖父母を失ったかのように泣いた。階層を問わず悲しみ、その様は筆につくしがたい。葬儀の日には、何万人もの会葬者が路にあふれた。合掌し、頭を垂れ、深く悲しむ声が誰からも漏れた。山川草木こぞってこれに和した」と伝えられている。
鷹山は上杉家の家督を継いだとき、師である儒学者細井平洲の教え「藩主は実の父母のように領民を愛し、慈しむ」ことを神に誓い、祖神・春日社に誓詞を納めた。このことは誰も知らず、この誓詞が発見されたのは百年後である。
鷹山の治政はこうした儒教の実践にとどまらない。鷹山は引退するとき新藩主となる治広に、後に「伝国の辞」と呼ばれることになる藩主の心得を授けた。「一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、われ私すべきものにはこれなく候。一、人民は国家に属したる人民にして、われ私すべきものにはこれなく候。一、国家人民のために立てたる君にて、君のために立てたる国家人民にはこれなく候。右三条御遺念あるまじく候こと」。これは驚くべき藩主機関説であって、二番目、三番目はまさに民主主義思想そのものである。この「伝国の辞」はその後代々の新藩主に伝授される慣例となった。
鷹山は謙虚で、非常に愛情深い人間であったが、ただ優しいだけでなく、強い忍耐力をもち、諄々と人を諭して倦まず、正しいことを実行する不屈の決断力と勇気をもつ君主だった。まさに封建時代の理想的君主だったが、鷹山の人間性からは、「伝国の辞」に見られる政治思想をはじめとして、封建時代のいわゆる「名君」を超えた、現代に通じる普遍性をもった指導者のあり方が伝わってくる。
上杉鷹山の愛に満ち、高尚で勇気ある美しい生涯は時代を超えて、現代に生きる我々に力を与えてくれる。
(令和3年7月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |