後藤新平(1857-1929)は旧仙台藩水沢に生まれた。苦学して須賀川医学校を卒業し、医師としてキャリアを歩み始める。ドイツ留学を経て、1892年内務省衛生局長となる。1898年台湾総督府の民生長官となって植民地台湾の経営に手腕を発揮。1906年50歳のとき初代の満鉄総裁となった。1908年第二次桂内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁。1920年には東京市長に就任。関東大震災(1923年)後、第二次山本内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の復興に尽力。晩年は政治の倫理化運動を展開し、73歳で没した。
日本および世界は今、新型コロナウィルスの疫病に苦しんでいる。後藤新平の生きた時代も疫病との戦いがあった。後藤は1895年、日清戦争の終結で、コレラなど伝染病の蔓延する中国から船で帰還する23万人の兵士に対する検疫事業の責任者に任命された。任命の2日後には、北里柴三郎ら医学や衛生学の権威を集めて検疫の大方針を決定。国内の3か所に大規模な検疫所を建設し、3ヶ月で687隻23万2,346人の検疫を完遂した。半分近くの258隻から369人のコレラ罹患者を発見し、これを隔離。国内での感染拡大を防いだ。この検疫事業は欧米諸国にも知られ、賞賛された。
1898年台湾総督となった陸軍の児玉源太郎は、検疫事業で発揮された後藤の卓越した行政手腕を認め、総督の補佐役である民生長官に抜擢した。児玉はその後台湾総督を兼任しながら、陸軍大臣、内務大臣となり、日露戦争勃発後は総参謀長となって満州に赴いたので、台湾の9年近い児玉総督時代、5年半は実質後藤民政長官による統治だった。
公衆衛生を重んじる後藤は上下水道を整備し、マラリアをはじめとする伝染病を激減させた。本国政府から巨額の予算を引き出し、上下水道の他、道路、鉄道、築港等のインフラ整備を積極的に進めた。滞米中の農学者新渡戸稲造を招き、産業振興を図り、砂糖産業を台湾の主力産業に成長させた。後藤の台湾統治は成功で、百年以上たった今もなお、台湾で後藤は近代化の父と評価されている。
後藤新平は「大風呂敷」と言われた。常に大きな構想で、事業をデザインした。関東大震災のとき、内務大臣兼帝都復興院総裁の後藤は、当時の国家予算に匹敵する13億円の首都復興計画を立案した。復興予算は議会で5億7,500万円に減額されたが、計画の相当部分は実行された。現在の東京の都市骨格、環状道路等の幹線道路網、公園や橋など多くの公共施設は、当時の復興計画に負うところが大きい。
「大風呂敷」といわれた後藤の構想は、実は地道な調査にもとづいていた。後藤ほど調査を重視した指導者はまれである。後藤の思考は科学的で、対処療法よりも衛生と予防を重んじ、常に先を見ていた。その先見性のゆえ、計画が大風呂敷に見えた。
後藤の仕事の根底には徹底した「公共の精神」があった。「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」と説き、生涯そのように生きた。また、「一に人、二に人、三に人」と言うのが口癖で、人材の登用と育成に情熱を注いだ。後藤は死の直前、「金を残して死ぬのは下だ。仕事を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのは上だ」との言葉を残している。
令和の今、後藤新平が生きていたらどのような仕事をするだろうか。
(令和3年5月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |