コツコツと
アスファルトを刻む
足音を
踏みしめるたびに
俺は俺でありたい
そう願った
………
ああ 幸せのトンボが
ほら 舌を出して
笑っていらあ
親友・長渕剛が心を込めて熱唱した「とんぼ」を聞きながら、清原和博(41)=オリックス=が泣いた。大粒の涙をぬぐいもせず、だれはばかることなく号泣した。
現役23年の幕引きの日、10月1日、対ソフトバンク戦。正直いって、清原がこんなに泣いたのを初めて見た。驚いた。PL学園から西武―巨人―オリックスと、23年におよんだ野球人生。一スポーツ記者として見続けてきただけに、清原ってこんな男だったのか、と不思議な気がしてならなかった。
取材するたびに、木で鼻をくくったような答弁をされ「お前が野球のプロなら、オレだって書き屋のプロ。聞かれたことに対しては、ちゃんと答えろ」と切れかかかったことがある。
しかし、振り返ってみれば、ときには悪態・悪口の中に、ちゃんと核心をのぞかせてくれていて「いい記事が書けた」と、ひとりほくそ笑んだこともあった。
引退試合直後の記者会見で「自分の弱さを見せまいと、いろいろわがままをいい続け、やり続けてきたことを許して下さい」と、深々と頭を下げたのを見て、ちょっとばかり見直した。何で、もっと早く自分に素直になれなかったのか。
担当記者からこんな話も聞いた。オリックスのある若手選手が、折れたバットを無造作にごみ箱に捨てるのを見て「サインしてファンにやれば、喜ぶ人もいるんじゃないか」と論したという。西武、巨人時代に清原がそれをやっていたらどうだったろう、としみじみ思ったことだった。
しかし、あの男はあれでよかったのだ。ウェート・トレでマッチョに変身。ダイヤのピアスをつけ、頭髪をツルツルに剃り上げ、肩で風切って歩き続けた23年間。清原は、やっぱり「凄い男」だった。あのイチロー(マリナーズ)でさえ、一目も二目も置いていたのだから、何をかいわんやだ。
ユニホームを脱いだ後、清原はどこへ行くのか。「当分は、抜けガラみたいなもんや。野球を忘れて、といっても無理な話だから、ふたりの息子とキャッチボールでもして遊んでやりたい。女房にも苦労のかけっ放しだったし、気楽に家族旅行でもして過ごせれば」と、現役時代には考えられなかったような発言を聞いて、耳を疑ったのは、小生だけではないはず。
だが、清原から野球を取り上げてしまったら、何も残らない。巨体を生かして格闘技転向のウワサもあるが、あの両ひざの故障、隠し切れるものではない。
ならば、球界にとどまってコーチ、さらには監督として再出発するのか。「桑田ならともあれ、それは考えられない。生まれ変わったように思えても、あの性格は生涯、変わらないだろう。人に教え、人の上に立つのは無理。野球解説、スポーツ紙評論家あたりが無難」「一部の一流選手には慕われても、技術の未熟な若い選手は育てられない」とは、清原をよく知る旧知の友人の予想だ。人間性の問題か。
「幸せ者の和博よ。お前は野球人生の“極み"へ入っていく」と長渕剛は言ったそうだが「極み」とは何を指し、意味しているのか。
ああ 幸せのトンボよ
お前は
どこへ飛んでいく
………
清原和博の野球人生、ついに終止符を打つことになるのか。いまは「お疲れさまでした。ゆっくり休んで下さい」とだけ言っておこう。 |