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   2006年12月15日号
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彰古館 往来
日露戦争の記録 <14>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
捕虜負傷者の送還
 明治39年(1905)3月17日、ロシア赤十字病院総監督グチコフとの会談の結果、ロシア側の意向を受け「帰国希望者は日本軍の前哨線を通る最短コースで後送する」旨、通達が出されます。
 翌18日、第一段階として、森林太郎第二軍軍医部長は、第五師団第二野戦病院長の芳賀榮次郎軍医に、患者を1184名の第八師団患者輸送部への後送を下命。隷下の第三、四、五、八各師団軍医部長と第三師団第一野戦病院長、第八師団第三野戦病院長には、第五師団第二野戦病院への患者の転院を命じ、3月21日から4月2日までにはこの転院業務を完了します。
 第二段階として第五師団第二野戦病院に収容した捕虜患者の後送が計画されます。日本への送還を希望するものは南行の汽車が準備され、前哨線を通って本国へ帰国を希望するものは徒歩、車両(荷車)、馬での移送となります。
 この時、新たな問題が発生します。日本軍が提供する車両と馬の数です。森軍医部長との事前協議で、日本軍兵站の諸事情から「要求の55台の車両を準備するのは難しい。随行する職員を最小限とし、車両10両、馬10頭がやっと」という状況を総監督は了解しておりました。
 ところが実際には、露軍捕獲車両が1台も返還されていません。総監督は森軍医部長に詰め寄ります。「車両数は事前に調整した当方の必要最小限の台数である。ジュネーブ条約第三条の『占領したる軍の配慮』が充分でないとして、赤十字に提訴する」と大変な剣幕です。森軍医部長は「車両の供給は軍副官部の管理で、軍医部長の私は関知していない」と弁明すると総監督は「私も部下も日本軍と森軍医部長を信頼してきた。今回の一件で部下達は騙されたと思うだろう。私も残念だ。赤十字条約毀損の抗議書を提出の上、明後日(26日)全員徒歩で帰国する」と通告しました。
 森軍医部長は、世界各国の注目の中、ジュネーブ条約の不履行は重大な背徳行為だと考えます。第二軍司令部に「要求を許諾することが有利なるべし」と進言、26日朝、要求どおりの車両30両が第五師団第二野戦病院に届けられ、グチコフは抗議文を取り下げました。
 こうして307名の捕虜軽症患者と99名の病院職員は、無事に前哨線に向け出発したのです。
 出発に際し森軍医部長は「充分な便宜を図ることが出来なくて遺憾である。周囲の状況を理解して、善意を持って対応して頂いたことに感謝する。並びにロシア軍病院に収容されていた日本軍兵士の厚遇に対しても深く感謝する」という書簡を手渡しています。
 一方、南行の列車に乗り、日本に向ったロシア軍捕虜達に対する厚遇は、習志野捕虜収容所写真帖などの既報が示すとおりです。
 3月10日の接収からの長い3週間は、森林太郎軍医部長にとっては日露戦争中、最大の危機だったのです。
 知られざる日露戦争の裏面史を、彰古館所蔵史料で見ることが出来ます。

寄せ書き
結婚3年目を迎える
八戸駐屯地業務隊 3陸曹 蛇沼 朋子
 私たち夫婦は今年で結婚3年目を迎えました。自衛隊に入隊して月日の流れを早く感じていたのですが、一日の仕事に家事と育児が加わり更に早まったように感じています。
 私たちは普段は平和な夫婦ですけれどやっぱり修羅場も何度かあって、私の人生最強の平手ビンタが炸裂したこともありました。旦那様が我慢強く大抵先に謝ってくれるので翌日には仲直りしています。旦那様はきっと「騙された!」と何度も思ったに違いありませんが、呑気な私の方は子供を囲んで笑いあったりするとつくづく幸せを実感したりしています。
 長男が初めて口にした固有名詞は「パパ」なのに、演習や勤務で月の3分の1はいないパパなので「俺になつかない」なんて拗ねたりしていますが、最近はパパが缶ビール、長男がストロー付きコップでお風呂上りに声を合わせて「かんぱーい!」なんてしているのが微笑ましいです。近々産まれる第二子も加わって、更に楽しく明るい家庭を築きあげていきたいと思います。
部隊を見学して
北桧山中学校 水野 李奈
 私は、9月26日に職場訪問として函館駐屯地を見学しました。「厳しい人だったらいやだなあ…」と思っていましたが、実際はとても優しい人達ばかりでした。事前にファックスで送っておいた質問にもこと細かに答えてくださいました。資料も沢山用意して頂いて、とてもわかりやすかったです。
 その他にも、資料館での見学で函館戦争についてもよくわかりました。
 この見学が終わった後に、迷彩服も着させて頂きました。その後に格闘の見学で、自衛官の強さは、こういうところで養われているんだということを改めて感じました。
 この見学で、とても印象に残っていることは、WAPCに乗れたことです。ニュースの中で何度か見たことがあっても、本当に乗れるなんて思っていませんでした。
 実際乗ってみて「こうやってイラクでお仕事をしていたのか」と思うと、とても凄いことだと感じました。
 今まで自衛隊に対して、「恐い」という思いがあったけど、職場訪問に行ってそういう思いは変わりました。「私たちは、こんなに優しい人達に日々守られているんだなあ」と思いました。
幹部レンジャー 集合訓練を終えて
第2戦車連隊 3陸尉 保坂 博和
 今回、私は美幌駐屯地で行われた幹部レンジャー集合訓練に参加しましたが、教育は噂通り、起床から就寝まで時間に追われ、毎日ピリピリした空気の漂うものでした。
 レンジャーに憧れ、希望して訓練に参加しましたが、教育間は何度となく「もう帰りたい…」という弱い気持ちにさらされたりもしましたが、同期と支え合い、お互いに切磋琢磨して教育を自分のものにしていきました。
 最終想定を終えて徽章を授与された時にはなんとも言えない満足感と達成感に自然と涙が流れました。
 教育を修了した今は、普通に生活できることがどれほど幸せな事であるかを実感している毎日です。
 最後に、本教育に参加している間、多くの支援をして下さった第二戦車連隊の皆様方、忙しい中、快く幹部レンジャー教育に送り出してくれた第五中隊の皆様方に感謝し、今後は、このダイヤモンドの徽章の光が曇らぬよう「男は黙ってやせ我慢」の気持ちを忘れずに精進していきたいと思います。
「努力」
第103全般支援大隊 補給中隊 1陸士 川崎 裕也
 自分の最も好きな言葉をあげるとすれば、それは「努力」の二文字です。
 この言葉は、生きていく上において、誰もが必ず一度は口にし、誰でも経験するものだと思います。
 自分の目標達成のためには何事においてもまず「努力」無しでの成功はありえないと思います。
 「自分の持っている力を最大限発揮すること」これによって自分自身の成長は、勿論のこと、周囲からの信頼も得ることができ、自分自身の更なる飛躍にも繋がっていくと思います。
 私も自衛隊に入隊してやっと一年がたちましたが、これからも初心を忘れることなく、常に前向きの姿勢を心がけ、「努力」を重ねて陸曹を目指して頑張っていきたいと思っています。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOBシリーズ
新潟トーヨー(株)新潟営業所 坂上和義
『何事も努力』
坂上氏は平成18年3月、空自第1補給処を士長で1任期満了退職。24歳
 私は今年3月まで木更津基地第1補給処の整備技術課に在籍していましたが、家庭の事情により1任期で任期満了退職をすることにしました。
 再就職に当たり昨年の9月に援護室を通し、地元新潟の合同企業説明会に出席した際に現在の職場を知りました。自分の職種である自動車整備の知識技能を活かせ、就労条件も合致したのがきっかけで入社を強く希望しました。そして、新潟救難隊援護室の方々のご協力もあって、「新潟トーヨー(株)新潟営業所」に就職することが出来ました。
 弊社では、タイヤ部、工業用品部、建設事業部の3つに分かれており、タイヤ部ではメーカーである東洋ゴムよりタイヤを卸し、お客様である各カーディーラー様やタイヤショップ様、ガソリンスタンド様から運送業様等に至って、タイヤ、ホイール、カー用品販売を行い、タイヤの組替え作業も乗用車から大型車まで行っています。工業用品部は、農機具に使うベルトや水ポンプ、ゴムホース等の販売を行っており、建設事業部では、地震が来たときに建物にかかる振動を吸収する耐震ゴム等の販売を行っています。
 現在、私はタイヤ部の商品係として配属され、主に勤務内容としては、各お客様から注文を頂いたタイヤ等の配送を行いながら、担当のガソリンスタンド様やカーディーラー様等を訪問し、営業活動を行っております。営業が終わり会社に戻ってからは、入荷したタイヤの整理や翌日に納めるタイヤの組付け作業等をしております。弊社に入社して早半年が過ぎ、配送業務では、取引先を覚えて配達は慣れてきましたが、営業では、自分の知識不足からお客様のご要望にすぐ対応出来なく、その度に先輩や上司にアドバイスをいただきながらお客様に回答しているので、お客様に素早く的確な対応が出来るように今以上に勉強し、信頼出来る営業マンになるべく日々努力しております。
 最後に再就職を考えておられる方は、どんな状況であれ努力を惜しまなければ、必ず、自分の道を切り開くことが出来ますので頑張って下さい。

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