防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース 防衛ホーム新聞社 防衛ホーム新聞社
   2004年9月15日号
 1面 14面 15面 18面 19面 20面

空自体験飛行参加者募集のお知らせ
 航空自衛隊は、自衛隊の日頃の活動を、多くの国民の皆様にご理解いただくため、自衛隊記念日記念行事の一つとして、次のとおり体験飛行を行います。
 〈日時、場所、使用航空機、搭乗人数〉▽11月28日(日)午前10時〜午後3時(1回の飛行時間約15分)▽航空自衛隊入間基地(埼玉県狭山市稲荷山2-3)▽C-1ジェット輸送機:460名、CH-47J輸送ヘリコプター:540名
 (天候不良等の理由により中止させていただくことがありますのであらかじめ御了承下さい)
 この体験飛行を希望される方は次の要領でご応募下さい。(応募多数時は抽選)
 〈応募資格〉小学生以上(小学生は保護者の同伴が必要です)
 
〈応募方法〉往復はがきにより上図の要領でご記入のうえ、ご応募下さい。(複数応募されてもお一人1回の搭乗とさせていただきますので御了承下さい【抽選の場合も同様】)*はがき1枚で中学生以上は2名まで応募できます。(小学生同乗の場合は、小学生2名まで・保護者2名までの計4名の応募が可能です)*小学生のみでの応募は御遠慮下さい。
 〈締め切り〉10月20日(水)必着
 〈お問い合わせ先〉防衛庁 航空幕僚監部 広報室 電話03-3268-3111内線(60092)
 〈発表〉返信用葉書の発送をもって代えさせていただきます。
 〈注意〉
(1)C-1,CH-47Jともに自衛隊機です。民間の旅客機のように、室内が明るく、静かで、乗り心地の良いものではないことをご理解のうえ、ご応募下さい。その他、両機種の特徴等については、航空自衛隊ホームページの装備品ギャラリーにも掲載していますので、そちらをご覧下さい。
(2)体験飛行搭乗券(当選通知葉書)は、搭乗者の名簿を事前に作成するため、当選者以外の方への譲渡はできません。
(3)入間基地では、駐車場の用意ができません。民間交通機関の利用をお勧めします。

自殺予防 Q&A
防衛医学研究センター  高橋 祥友
〈第6回〉
失踪(自殺のサインの可能性も)
 Q:最近、落ち込みがちだった隊員が連絡もなく突然所在不明になってしまった。数日後に、姿を見せたが、とくに変わった点にも気づかれない。むしろ、以前よりも元気なくらいである。このまま様子をみていてよいものだろうか?
 A:こういった事例は一般の職場でも時々起きる。会社員が失踪したりすると、「職場放棄」「無断欠勤」だといって、処分の対象とされるようなことは残念ながらめずらしくない。それまでの仕事振りや同僚との関係が悪かったりすると、退職を迫る格好の理由とされかねない。まさに失踪中で、本人の居場所すら分からず、不安にかられている家族が、本人に代わって辞職願いを提出するように迫られたなどといった極端な例さえ、耳にしたことがある(これが法的に有効なのかどうかはわからないが、このような例があることは現実である)。
 また、失踪していた人が、何日かして職場に戻ってきたとする。皆がどれほど心配していたのかもまったく気にせず、本人は意外に元気そうで、あまり深刻でもない。そんな場合にも、責任論が噴出して、処分が検討されかねない。
 失踪というと、我儘な人が、突然、責任を放り出して、勝手にどこかに行ってしまうといった状況を考えがちである。たしかにそういった失踪がないわけではない。しかし、うつ病と失踪(専門用語では「遁走」と言ったほうが正確である)が重なった場合は、非常に深刻な事態と考えるようにしてほしい。自殺の前段階として、失踪に及ぶこともあるのだ。
 失踪がどのような意味を持っていたのか、正確にとらえるのはけっして易しくはない。もしも誰かが失踪に及び、その後、発見されたならば、まず精神科医による診察を受けるように手配してほしい。背後に潜んでいる深刻な心の問題に気づかずに、職場で処分の対象にしてしまうといったことが、追いつめられている人の背中を押す結果にならないように十分な配慮が必要である。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ 32〉
関東大震災と軍医学校
 大正12年(1923)9月1日午前11時58分の関東大震災は、死亡・行方不明者10万4,619人、重軽傷者は5万2,074人に及びました。電気・上下水道・ガス・電信・電話・都電ほか各種交通機関などライフラインの停止と東京の半分を焼失する大火災によって都市機能は完全に失われたのです。
 本年7月、彰古館から当時の軍医学校の業務詳報が発見されました。生々しい貴重な一次資料です。今回は、震災医療史の中の軍医学校を検証してみます。
 当時、軍医学校は麹町区富士見町(靖国神社の北隣、現在の法政大学、嘉悦女子学園などの位置)に所在しましたが、明治21年(1888)以来使用している本館は殆ど半壊状態で、一部の教室は薬品の転倒により発火、火災が発生しております。
 この時、学校職員と学生、診療部の患者には幸いにも1名の死者もありませんでした。診療部で受診中の一般患者を直ちに帰宅させると共に、入院患者・付添い人を本館前に避難させます。治療を求めて来た近傍の負傷者に応急手当を施すと共に、手術実習室に救護所を開設します。時に零時20分、第一震後わずか22分後のことです。
 その頃、用賀の衛生材料廠は火災により倉庫一棟を残して全焼、衛生材料、患者輸送車の全てを失いました。臨時に編成された関東戒厳司令部隷下の第一師団と近衛師団は戦用資材の衛生材料の封印を解き、派遣命令を下します。
 2日以降開設された救護所は近隣各師団の応援を受け、東京市内外97箇所、神奈川61箇所、千葉24箇所を数え、衛生部員は4,366名が出動しました。
 3日、陸軍大臣は戒厳司令部への人員差し出し命令を下達、軍医学校は救護班を派遣します。さらに学校職員は軍医学校に留め置きとなり、残余の人員を持って診療部を一般開放し、本格的な診療と天幕露営による入院患者の受け入れを開始します。被災地の中心に位置した軍事施設が自ら被災者の救護に当たる余力があったとは驚きです。しかも、学校職員もまた被災者なのです。交通機関が途絶し、近傍の師団からトラックで救援物資が届くまでは、衛生材料も補給が無い状態での診療業務です。
 体勢が整い始めた6日以降は各部隊からの依頼による毒物検査、11日以降70箇所以上に及ぶ水質検査、コレラ・赤痢・チフスなど菌検索のほか、コレラ予防接種5万人分、チフス予防接種10万人分の製造を開始。同時に建物の補修と検査の結果、診療部の建物は使用可能と判断され、10日以降は病室を診療部に移転、14日以降は外来も診療部とし、各救護所から搬送される重症患者の手術にも対応、24日以降は通常の外来診療が始まります。
 9月30日に至り、各救護所で治療を受けた負傷者の総数は16万3,870人にのぼります。軍医学校では1,428名の患者を診療して業務を終了しました。
 これまでにも軍中央機関の公文書は存在が確認されていますが、当時の軍医学校の具体的な行動が判明したのは実に81年振りのことです。彰古館の史料発掘はまだまだ続きます。

シリーズ イラク派遣を終えて
空自北部航空警戒管制団 第36警戒隊 3空曹 山本 和彦
 私は、先ごろクウェート(アリアルサレム空軍基地)で、イラク復興支援1期派遣要員として参加しました。
 日本を出国する前は、家族には全く連絡できず、猛暑や砂嵐が頻繁にあり、あちらこちらで銃声や爆音が鳴り響いているイメージでしたが、実際現地は気候も穏やかで、日本とは、テレビ電話こそありませんでしたが数分間は雷話ができ、時差が6時間あるのは家に電話をかけるまで気付きませんでした。また、気温が35℃以下なら空気が乾燥しているため野外での行動もしやすく、生命の危険を感じるようなこともありませんでした。
 仕事で戸惑ったことは、左ハンドルの車を運転することと英会話でした。特に、右左折時にどうしてもワイパーを動かしてしまい(日本車とワイパー・ウインカーのスイッチが逆)、慣れるまでやや暫くかかりました。ただ、慣れとは恐ろしく、帰国してからも右車線を走ることがしばしばあり、何回も危ない目にあった事を今でも覚えています。また、英会話は米軍と同じ勤務場所で夜間も一緒にいるため、会話をする場面が多くあり、相手も日本語が解らず、自分も単語程度しか理解出来ず電子辞書を片手に苦労しました。しかし、それも帰国の途につくころには「言葉の壁はあるけれど時間が解決してくれる」と実感でき良い思い出となりました。
 私がいた勤務場所や宿舎周辺の様子は、蠍、蛇、キャメルスパイダー、ハリネズミ、大トカゲなどがいましたが、昼間は現れることはほとんどなく、現われたとしても10p程度のトカゲぐらいで、夜、出歩かない限り危険は少ないと感じました。更に基地から太陽が地平線を昇り降りするのを見た時は自然の神秘さを感じ、日本では見られない光景を目の当たりにしたことは自分にとって良い経験であったと思いました。
 宿舎の生活環境は、大部屋に約20人程が生活しテレビアンテナもなく、頻繁に停電もありましたが、徐々に良くなりました。トイレは当初、水洗ではなく、しかも頻繁に詰まりました。洗濯も手洗いのみで、乾燥機もなかったため外に干すしかないのですが、洗濯物に砂がついて汚れてしまうのには戸惑いました。それもはじめの数週間だけで、トイレは水洗式になり洗濯機や乾燥機に加えて部屋にはエアコンも入り、数カ月後には最初の苦労が懐かしくさえ感じました。
 普段の食事については、禁酒と豚肉を食することは禁じられています。全般的な印象は、日本での生活と比べると不便はありますが、想像するほどの。酷い所ではなく、休日は自分のペースでDVDを鑑賞したり、ウエイトトレーニングやジョギング(飲料水必要)をしたり、クウェートやアメリカの(BX)で買い物をして過ごすこともできます。また、現地の人や各国軍人とのサッカー、バスケット、バレーボールをする機会も多く、私も試合をする機会があったので参加したのですが(現地ルール? 9人制、ローテなし)、思った以上に相手が手強く勝利は得られませんでした。以上のように衣食住に関しては、良好な状況であり、留守家族の皆様には安心して隊員の帰還をお待ちいただきたいと思います。
 最後になりますが、自衛隊はいざというとき、身の危険を顧みることなく任務を遂行することに意義があります。「いざというときはやる」といきがっていても、行動が伴わなければ意味がありません。今後も自衛官としての能力向上を目指し、場数を踏んで成長していきたいと思います。

19面へ
(ヘルプ)

Copyright (C) 2001-2008 Boueihome Shinbun Inc