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機略縦横(51)
より強く
陸上自衛隊教育訓練研究本部 最先任上級曹長 准陸尉 松永雅貴 |
新年度がスタートしましたが、皆さんの部隊はどうですか?基幹となる隊員達が安定した能力を発揮すると期待される一方、活性化などを期待して一定の隊員が入れ替わったり、新任の小隊長を迎えていたりとそれぞれ事情は違うでしょうが「変化した(一時的に下がった)」はずです。この状態から元より強い部隊へと「変化させる」のですが、ここで重要になる点が大きく二点あると思います。
先ずは「コミュニケーション」です。新戦力となる隊員とよく意思の疎通を図り「下意上達」「上意下達」のルートを早期に再構築して直近の上司部下・同僚とネットワークを繋いで欲しいのです。それによって先任上級曹長らが指揮官とより良い環境を醸成してくれます。
もう一つは各人が「現状」を見直し強み(得意)・弱み(不得意)を自覚し、それを有効に生かしていくことです。基礎動作など、何が出来て何が出来ないのか?自分はどういった訓練(実務)・教育に貢献できるか?それらを改めて考えてみると個人差はあれ誰もが昨年度より何かが向上している事に気付くでしょう。そんな自分に自信をもって、かつ同僚をリスペクトして隊務に臨んでみてください。強みの結集が成果を出して部隊も個人も「より強く」なっていく筈です。 |
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新たな歴史を刻む 新・改編行事 |
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東部方面特科連隊を新編 |
3月16日、山梨県北富士駐屯地に所在する第1特科隊及び栃木県宇都宮駐屯地に所在する第12特科隊は、同日付けをもって廃止となり、新たに東部方面特科連隊として新編された。初代東部方面特科連隊長の富永將文1陸佐は、東部方面総
監より連隊旗を授与された。
新編された東部方面特科連隊は、北富士駐屯地に連隊本部、本部中隊、情報中隊及び第1大隊が、宇都宮駐屯地に第2大隊及び情報小隊がそれぞれ駐屯し、東部方面隊の火力戦闘部隊として火力協力を行うとともに、「山梨県」及び「栃木県」を隊区として防衛警備・災害派遣に係る任務、国家行事支援(礼砲等)等にあたる。 |
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第3偵察戦闘大隊を新編 |
第3師団は3月16日、今津駐屯地において第3偵察戦闘大隊を新編し、編成完結式を行った。
第3偵察戦闘大隊は、滋賀県高島市の今津駐屯地に駐屯していた第3戦車大隊と兵庫県伊丹市の千僧駐屯地に駐屯していた第3偵察隊を基幹としており、16式機動戦闘車や87式偵察警戒車などを配備している。
初代大隊長には、足立賢一2陸佐、最先任上級曹長には水國聡准陸尉が上番した。
編成完結式では、第3師団長から第3偵察戦闘大隊長に隊旗が授与され、16式機動戦闘車に描かれた部隊シンボルに入魂を行った。 |
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第6即応機動連隊に改編 |
第6即応機動連隊(連隊長・河村友則1佐=美幌)は、3月16日、美幌駐屯地において、第6普通科連隊の創隊71周年の伝統と歴史を継承し、第6即応機動連隊改編行事を実施し、新たな歴史の一歩を歩みだした。
第6普通科連隊の歴史は、昭和27年、警察予備隊が保安隊に改称された際に、第6連隊が創設され、昭和29年には、第6連隊から第6普通科連隊に改称になり、昭和27年から71年もの間、道東の防人として、その任務に従事した後、陸上自衛隊で6番目の即応機動連隊に生まれ変わり、新編部隊として火力支援中隊及び機動戦闘車中隊が新たな戦力として加わった。
当日は隊旗授与式から始まり、各中隊長は力強く中隊旗を受け取り、中隊に対し「命課布達」を実施した。その後、最先任上級曹長及び各中隊の先任上級曹長が作成した新隊歌を連隊全隊員で斉唱、引き続き河村連隊長から隊員に対し、改編にあたり式辞が述べられ、隊旗授与式を終了した。
次に編成完結式開始に先立ち、旅団長および河村連隊長が本部庁舎入口前において、改編前に隊員一人ひとりが魂を込めて彫った第6即応機動連隊の看板を壁に掲示した。また、連隊の看板同様に各中隊も中隊長以下各隊員が魂を込めて彫った中隊の看板をそれぞれ掲示した。
編成完結式では、第5旅団長に第6即応機動連隊としての編成完結を報告、第5旅団長から改編にあたり、激励の言葉が贈られ、編成完結式を終了した。
また、改編にあたり、連隊シンボルマークも新たに作成、第6普通科連隊のシンボルマークは緑色に道東の守り神・飛躍の象徴であるオジロワシを中心に、固い絆を表現するのに鎖を、厳しい自然環境である流氷を、道東の象徴である知床連山を取り入れていた。
新シンボルマークでは、藍色に変更し、北海道マークに先人の知恵と経験を表す梟、力である狼、オホーツクならではの狐、隊区市町村の数を表現しているリングを取り入れ、3月16日に新シンボルマークが入った識別帽を全隊員が着帽した。
第6即応機動連隊は、改編を通じて、更なる部隊の団結、使命の自覚及び士気の高揚を図るとともに、新たな活躍を見せていく。 |
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立川分屯基地閉鎖
航安隊は入間へ
空中音は府中へ |
3月15日、航空自衛隊立川分屯基地(司令・岡本秀史空将補)が惜しまれながらその65年の歴史に幕を降ろした。所在する航空安全管理隊は入間基地に、航空中央音楽隊は府中基地に移転、翌16日からそれぞれの新天地で新しい一歩を踏み出した。
閉鎖に先立って、1月26日に「立川分屯基地閉鎖行事」が、コロナ対策を講じた上で、井筒航空幕僚長(当時)、北関東防衛局長、地元選出国会議員、立川市および近隣市の防衛協会会長等、部内外から多数の来賓を招いて行われた。
基地閉鎖は
空自初の事業
立川分屯基地は昭和33年に航空医学実験隊(平成20年入間に移転)、第1補給処立川支処(平成31年廃止)が所在する基地として発足。翌年に臨時航空音楽隊、昭和57年に航空安全管理隊が配置された。操縦士にとってここ立川は、20代に「対G訓練」「航空機整備訓練」を経験した思い入れの強い地である。また航空安全・事故防止のエキスパートを養成する場でもあった。
航空自衛隊は平成24年、横田基地の設置を皮切りに、首都圏に所在する部隊の再配置を進めており、その一環としての立川分屯基地の閉鎖は一連の事業の最終章。基地の閉鎖は空自初の事業だという。
岡本司令は式辞で、地元の支援と理解に対する感謝を述べ、「新天地に移転した後も、ここ立川で培った誇りと伝統を胸に引き続きそれぞれの任務にあたって参ることを誓います」と述べた。
井筒空幕長もまたこの基地で学び育った一人。「この立川で培った自信と誇りを胸に、基地に対する理解と惜しみない協力を頂いた皆様に対する感謝の気持ちを忘れずに、新天地においても部隊一丸となって任務に邁進してほしい」と隊員に要望した。
後半は、中央音楽隊の華やかな演奏で式典に華を添えた。演奏後の惜しみない拍手が、まるで「ふるさと」立川の地から旅立つ我が子を送り出すエールのように会場を温かく包み込んだ。
中央音楽隊は翌16日に府中基地で移動完結式を実施。隊長の前田忠信2空佐は「音楽が持つミリタリーパワーを遺憾なく発揮して、指揮官を先頭に部隊一丸となって航空中央音楽隊の新たな歴史を築いていこう」と訓示した。 |
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