防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   1058号 (2021年9月1日発行)
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ノーサイド
北原巖男
終戦76年の今

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑。先の大戦において海外で亡くなられた軍人・軍属・一般邦人の皆さんの、いずれも家族に引き渡すことのできない御遺骨が安置されています。
 今年の8月15日は、朝から雨。参拝者の皆さんに交じって正面の六角堂にて白い菊の花一輪を捧げました。菅首相が捧げた花束もありました。
 同墓苑は、昭和34年(1959年)に国が建設してから既に62年になります。
 僕がこれまでも感じ、今年も強く思ったことは、六角堂をもっともっと、より一層「無名戦没者のお墓」にふさわしい慰霊と不戦を誓う建物に建て替えて欲しいことです。千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝された方で、このように感じるのは、おそらく僕一人だけではないのではないでしょうか。
 今や戦前・戦中生まれは、人口のわずか7人に1人。戦後生まれが人口の8割超を占めるに至っています。先の大戦は遠くに立ち去ろうとしています。しかし、終戦76年を超えて、私たちが享受している平和な世の中を守って行くためにも、私たちには、次代を担う世代に対し、日本人だけでも約310万人もの人が犠牲になった時代があったことを、反省を込めてしっかりと伝えて行く、不戦の祈りを継承して行く責任があります。僕には、その象徴的な場所の一つが千鳥ヶ淵戦没者墓苑だと思うのです。
 こんな本があります。「敵国日本」(ヒュー・バイアス著/内山秀夫・増田修代訳、2001年9月刀水書房刊。原書は、1941年12月8日の真珠湾攻撃以降に執筆が開始され、旧日本軍がマニラやシンガポールを陥落させ、オランダ領東インド諸島を占領、ポルトガル領東ティモールからオランダ・オーストラリア連合軍を駆逐した頃の1942年2月刊行)
 本書は、この当時、アメリカが日本をどう見ていたかが書かれています。例えば、このような記述。
 「12月8日 開戦の決定がだいそれたことであることは海軍には十分に分かっているはずである。そして、結局はそれが自殺行為になるであろう」
 「12月9日 すべての条件を考慮に入れれば、この戦争が結局は日本の敗北に終わる運命にあるのは、万に一つも疑いを入れない・・・・・」
 「物理的に日本が何千もの島を管理することは不可能だ。日本軍はいたる所で襲撃され、長大な距離の戦線に沿って警戒体制を取り続けなければならなくなる。伸び切った通信伝達線はすべての司令官の悩みの種であり、教育によって精神の自発性を失った兵士は、間断なく問題を突き付けられることになる。戦争の速度のすさまじさに、日本は耐えられなくなってくる。中国でやったと同じように、広大な地域をかちえたものの、そこから資源を開発するよりも、戦争で消耗するスピードの方が早いという事態に陥っていることに日本は気づく」
 終戦76年の今、僕たちは猛威留まるところを知らない新型コロナウイルスとの戦いの真っ只中に在ります。特に、いたたまれない気持ちと憤りを禁じ得ないのは、「自宅療養」を続けざるを得ない状況に置かれている方々が相次いで亡くなられている惨劇です。「自宅療養」では、本人も不安ですし、家族全員が感染してしまうことは火を見るよりも明らかです。入院が出来ず、十分な医療を受けることも出来ないままに死亡するといったことがこの日本で生起しています。先の大戦の激戦地で病のため苦しみながら命を落として行った多くの皆さんとも重なって来ます。
 政治と行政は、一刻も早くコロナ専用の「野戦病院」のようなものを建てて、患者を隔離し治療する態勢を構築して欲しいと思います。先の大戦時との根本的な違いは、そのような病院を速やかに作ることは可能だということです。
 現場で頑張っている知人の若い医療従事者の女性から、こんなメールを頂きました。
 「山谷でもコロナで亡くなる方がいて、今まで元気だったのに、突然の別れは本当に虚しさがあります。病床が逼迫していて、本当に病院に連れて行ってくれず、今後は在宅でも理不尽ながら看取ることがあるのではないかと心配になります」
 「 "情が豊かであることこそが、人間として最も大切なことである"  コロナで、時々情が失われていることに気づくことがあります。自分に余裕がないと、人の心配はなかなかできないものなのですねー。でも、身体面でも精神面でもコロナに負けたくない。大事な友人たちに連絡を取り、元気を確認しながら、いつかまた会える日を楽しみに頑張ろうと思います」
 (お詫び)
 前号(8月15日付)で広瀬淡窓の詩を引用した際に、欠落や漢字の間違い等がありました。
 ここにお詫びして再掲いたします。
道ふを休めよ
他郷苦辛多しと
同袍友有り
自ら相親しむ
柴扉暁に出づれば
霜雪の如し
君は川流を汲め
我は薪を拾はん
 *同袍は、ドテラを共有する親しい間柄を意味します。

北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事


ゲッキーの突撃レポート 第7回
宇都外務副大臣に聞く

ゲッキー)今日は、アフガン情勢について伺いたいと思います。背景にはどんな歴史があるの?

宇都)かつて、アフガンはタリバンが政権を支配していて、アルカイダというテロ組織の温床になっていたんだ。2001年9月11日に起きた米国同時多発テロをきっかけに、アメリカはタリバンとの戦争(アフガン戦争)に突入しました。その結果、タリバン政権は崩壊し、新しい新政権はタリバン(パシュトゥーン人)以外の少数民族連合が担うこととなり、親米的な政策を進めることになったんだけど、それからも長いことタリバンとの間で内戦が続いたため、米軍はずっとそれを支援していたんだね。

ゲッキー)
今回急に情勢が悪化したのはなぜ?

宇都)
アフガン軍事介入の良い結果がでないため、予算も犠牲も払い続けることに国内世論が否定的なったアメリカは、トランプ前大統領が、米軍のアフガンからの完全撤退を決めたのです。そして、バイデン大統領は時期を少し延長し、同時多発テロの起きた9月11日までに完全撤退する方針でいました。ところが、米軍が撤退し始めると勢いを取り戻したタリバンが次々と町を陥落させ、あっという間にアフガン全土の殆どを掌握してしまったのです。

ゲッキー)
アフガン政府とかアフガン軍は何をしてたの?

宇都)
ガニ大統領は、タリバンの報復を恐れて、多額の現金を持って国外に逃亡してしまいました。また、アフガン軍も士気・能力が低く、まともな戦闘もできずに侵攻を許してしまいました。現在は、政府と呼べるような秩序を維持できておらず無政府状態で、近々タリバンによる新政権が樹立すると見られています。

ゲッキー)
多くのアフガン人が空港に詰めかけている写真等を新聞で見ました。なぜ国を棄てて国外に逃げようとしているの?

宇都)
かつてのタリバン政権時代を知っている多くの国民は、恐ろしい独裁政治が再来することを恐れているのです。アフガン政府に協力していた者を報復として殺害したり、女性の人権を激しく弾圧したり、理由もなく拘束され留置させられたりするのではないかと恐れているのです。空港には何千人という人が集まっている情報もあります。

ゲッキー)
現地の日本人はどうなりましたか?大丈夫ですか?

宇都)大使館職員の12名は8月17日に全員が国外に脱出し、現在はトルコのイスタンブールで、暫定の大使館業務に当たっています。その他、約10名の日本人が国際機関等で働いていたのですが、それぞれの機関の決定に従って一部は出国したり、一部は現地に留まって引き続き国際機関としての活動をしたりしています。今のところ安全はきちんと確認できていますよ。

ゲッキー)
あんな状態になるなんて、とても怖いですね。何か日本に出来ることはありますか?

宇都)
まだアフガンには多くの米軍人や米国人が取り残されています。国際社会と連携して、その安全な移動等に日本としても協力することが必要です。また、新たに樹立する新タリバン政権に対し、自国民への暴力をやめ、人権に配慮した政権運営を行うように、諸外国と協力して促していかねばなりません。
 また、日本もアフガンを他人事と考えずに、日本の安全はキチンと自衛隊が守れる体制を日頃から整えておく努力をすることです。同盟国が積極的に日本を守るのではありません。私たち日本人が自らの手で日本を守ることが重要なのです。

 宇都隆史(自由民主党参議院議員、現外務副大臣、元航空自衛官)
 昭和49年生まれ、鹿児島県出身。平成10年に防衛大学校卒業(第42期)、航空自衛隊入隊。平成19年に政治の道を志して退官。平成22年自民党比例区で参議院議員に初当選。


45年の時を経て親子で感動
復活!アーミーサウンズinましき
<西部方面音楽隊
>
 西部方面音楽隊(隊長・志賀亨2陸佐=健軍)は、7月10日、熊本県上益城郡益城町文化会館で実施された「復活!アーミーサウンズinましき」に参加した。
 このコンサートは、ホールの改修工事により3年ぶりの開催となったものであり、約250名の来場者の参加を得た。コンサートプログラムは、行進曲を始め、歌謡曲などを取り入れた親しみある曲が並ぶ中、「アイ・リメンバー・クリフォード(クリフォードの想い出)」という曲のトランペットソロ演奏を音楽隊木下繁樹陸曹長が担当。この曲は、木下曹長が幼少の頃、同音楽隊でトランペット奏者であった父親(文洋さん)の演奏する「アイ・リメンバー・クリフォード」に魅了され、同じトランペット奏者としての道を歩むきっかけとなった思い出の曲である。
 あれから45年、今度は音楽隊の伴奏にのせ、この曲を演奏する息子の姿を客席から見守る文洋さん。かつて音楽隊員であった現役時代を思い出すと共に、ステージで演奏する息子の姿と当時の自分を重ね、終演後には「感動して涙が止まりませんでした」と語った。

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