自国に自信を失うとき、日本語否定論が現れる。明治の始め、文部大臣森有礼が英語を国語にすべきと唱え、終戦後、憲政の神様といわれた尾崎行雄が同様の主張をしている。戦後はまた、小説の神様といわれた志賀直哉が、フランス語を国語にしたらよいなどと発言している。
私自身は学校で日本語が優れた、良い言葉であるなどとは教えられなかったと思う。社会に出てからも、日本語は論理的でない、主語がなかったりしてあいまい、といった否定的な日本語論を散見した。
かつて、「日本語は悪魔の言語だ」といった欧米人によるひどい評価があった。これは戦国時代日本に来たカトリックの宣教師が、日本語を習得できず、かんしゃくを起こしてローマに報告したことに発している。日本語とヨーロッパの言葉は、言語の構造にかけ離れた違いがあるため、お互いに習得するのが難しい。
私はある程度年をとって、日本語が優れた、良い言葉だと強く思うようになった。
日本語が論理的でないという欧米人や、それを真に受ける日本人もいるが、そんなことはない。言語は人間のコミュニケーションの手段であって、論理のないコミュニケーションなど成立しない。日本語は完全な論理をもち、完全なコミュニケーションが可能な言語である。日本語は論理的記述に適した言語のトップ集団に分類されるという、外国人言語学者の研究もある。
日本語があいまいで明晰でないといった評価もあるが、明晰に表現しようとすればいくらでもできるところを、微妙で繊細な情感を伝えるために、わざわざあいまいにしているのである。日本語は繊細な感情を含む豊かな思想を、よく伝達できる成熟した言葉である。
平安時代初期に起こった「仮名」の発明こそ、日本文化史上最大の出来事だったと私は思う。我々の祖先は、表意文字の漢字から表音文字の仮名をつくり、さらに漢字の訓読みを生み出した。漢字仮名混じり文は、日本語によくフィットした非常に良い表記法だと思う。日本語を仮名だけで表記することもでき、同じ表音文字のアルファベットで記述することも可能だろうが、漢字仮名混じり文の読みやすさと伝達力に及ばないだろう。
漢字は日本語になかった抽象的な概念を多くもたらし、高度な概念を簡潔に表現することを可能にした。漢字はもともと外国語であるが、今は完全な日本語の一部である。日本語はやや堅い感じのする漢字と、やわらかい和語とのハイブリッドな構造になっており、この点、英語に似ている。英語は和語に相当するアングロサクソン系の言葉に、外来語であるフランス(ラテン)系の言葉が大量に入った混成語である。
日本語は語彙が豊富というのも大きな特色である。ヨーロッパの言葉は5,000語も覚えれば文学作品が読めるが、日本語では10、000語必要だという調査研究がある。語彙が豊富ということは、表現が豊かな言語であることを意味する。
日本語は、人が感じ、思い、考えるための豊富な語彙としっかりした論理性をもち、繊細に表現できる良い言語であるが、戦後の日本語は劣化してきているかもしれない。国民が国語を粗末にすれば、国の独立を失う。我々は日本語の良さをよく知り、日本語を大切にして世界の中で生きていきたい。(令和2年6月1日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |