第43代アメリカ大統領ブッシュ(Jr)は2005年、ラトビアの首都リガで、「ヤルタでの合意は、安定という目的のために小国の自由を犠牲にし、欧州大陸に分断と不安定をもたらした。中欧・東欧の何百万という人々を囚われの身としたことは、歴史上最大の誤りの一つとして記憶されよう」と、ヤルタ協定を批判する注目すべき演説を行った。
ヤルタ協定は、ルーズベルト大統領(米)、チャーチル首相(英)、スターリン元帥(ソ連)が、第二次大戦における連合国の勝利がほぼ確定した1945年2月、クリミヤ半島のヤルタで行った首脳会談での合意である。
このヤルタ会談で、国際連合の設立、ドイツの分割、ポーランドの国境確定、バルト三国のソ連併合を含む中・東欧諸国の戦後処理などが取り決められた。大戦後、中・東欧諸国が共産化され、欧州が東西に二分される体制となって、冷戦が始まった。1991年ソ連が崩壊し、中・東欧諸国はソ連の支配から解放された。ブッシュは、中・東欧諸国の自由を束縛し、歴史上最悪の出来事をもたらしたとしてヤルタ協定を批判したのである。
ブッシュ(Jr)は歴代アメリカ大統領の中で評価はきわめて低い。一方ヤルタ会談の当事者であったルーズベルト大統領の評価は非常に高い。しかし、私はヤルタ会談に関してはブッシュを大いに評価したい。
大戦後の世界秩序を三人で決めたヤルタ会談であったが、ここではソ連スターリンの主張がほぼ貫徹された。その背景に、苛酷な独ソ戦を戦い抜き、最大の犠牲を払って(2,700万のロシア人が戦死したといわれる)ナチスドイツを破ったのはソ連だとの自負があったが、もう一つ、ルーズベルトの親ソ連、親スターリンの感情があった。チャーチルはソ連の勢力拡大を警戒したが、英国の力は米ソに及ばず、ルーズベルトとスターリン両巨頭の後塵を拝した。
ルーズベルトはこのとき健康を悪化させており、体力、判断力が明らかに落ちていた。スターリンを信頼し、スターリンと争うことなくヤルタ会談を終え、二ヶ月後に死去した。ルーズベルトは容共の大統領だった。彼のニューディール政策は社会主義的だったし、ルーズベルト政権内には、スパイを含む共産主義者が少なからずいたことが知られている。
人類は壮大な実験を経て、共産主義は人類に幸をもたらさないとの評価が確定している。ヤルタ会談は、アメリカがソ連と組んで共産主義を世界に広める結果をもたらしたとして、私は否定的な歴史評価を下したい。
ヤルタ会談は日本にも大きな災厄をもたらした。ルーズベルトはヤルタで、日本の北方領土をソ連に献上する密約をスターリンと取り交わした。スターリンは対日参戦をするに当たって、千島列島のソ連への引き渡し、南樺太の返還、満州におけるソ連の優先的利益の保護などを要求したが、ソ連の参戦を急ぐルーズベルトはこれをすべて認めた。協定のこの部分は秘匿され、公開されたのは戦後の1946年2月だった。
ロシア(ソ連)は、北方領土はソ連が第二次大戦の結果承認された正当な領土であるとするが、この主張の根拠にヤルタにおけるルーズベルトとの密約がある。しかしアメリカ国務省は1956年、ヤルタでの密約はルーズベルト個人の文書で、無効であるとの公式声明を出している。
ソ連による北方領土の占領は、ポツダム宣言を受諾して停戦した後の日本に対して、一方的に行われた。日本は北方領土返還の主張を決してやめてはならない。(令和2年5月1日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』など。 |