防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2008年1月15日号
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防大剣友会、鳳凰盃を手中に
《学連剣友剣道大会》
「防大剣道ここにあり」
文武両道貫く
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 12月16日に東京武道館で行われた第18回学連剣友剣道大会男子2部(55歳以上の部)鳳凰盃において、防衛大学校剣友会が出場し、筑波・国士舘等の名だたる名門校を撃破、「優勝」という偉業を成し遂げた。
 学連剣友剣道大会とは、関東地区(地方大学出身者の関東支部を含む)の大学のOBが参加する大会で、男子2部には、56校が出場、5名一チームの団体戦で争われた。
 「継続は力なり」と日々の業務の合間を見て稽古に励んだ選手達の結果で示した成果であった。
 【選手】▽先鋒・安部壽和(19期陸上・教士七段・輸送学校長)▽次鋒・阿部裕(17期航空・教士七段・経済産業省、元情報保全隊副司令)▽中堅・太田文雄(14期海上・教士七段・防大安全保障危機管理教育センター長、前情報本部長)▽副将・杉田明傑(7期陸上・教士七段・日本生命保険、元第1師団長)▽大将・江藤兵部(7期航空・教士七段・元航空総隊司令官)
 【試合結果】
 ○第1回戦 北海道大学1-3防大
 ○第2回戦 防大3-0中央大学B
 ○第3回戦 防大2-1神奈川大学A
 ○準々決勝 防大3-1國學院大學
 序盤戦は終始安定した試合運びで格の違いを見せ、順当に準決勝へと駒を進めた。
 ○準決勝 防大3-1筑波大学
 名門筑波大学との対戦。勝負は1勝差で後半戦にもつれ込み、副将杉田は果敢に攻める相手に応じ技で返す激戦の末に引分け。粘る筑波は大将戦に望みを繋ぐが、大将江藤が貫禄を見せ、豪快な面を決め決勝進出を果たした。
 ○決勝 防大3-2国士舘大学
 昨年度優勝の国士舘大学との対戦。先鋒安部が場内を沸かす会心の面を決めて先制し、続く次鋒阿部も相手が下がったところを流れるような(攻め勝った)面を決め中堅へ。中堅太田は第2回(1973年)世界選手権大会個人優勝者桜木哲史に対し、上段に構え伝家の宝刀(面)を一閃し、優勝を決めた。
 剣先に気迫を込め毅然と構えて相対峙し、一歩も引かない試合内容で、選手達は「防大剣道ここにあり」と胸を張って鳳凰盃を手中にした。昨年度は防大剣友会関西支部が関西大会において準優勝し国士舘に優勝を譲ったが、今年はその国士舘を破って準々決勝へ。それに続く本大会の「優勝」は、自衛隊剣道・防大OB・防大学生の励みとなる。特に今回の選手は退役前を含めてほとんどが将官であり、「文武両道」即ち仕事を立派にこなしながらも剣道は続けられるのだということを、後進にメッセージとして身をもって与えてくれたことで意義深い。
(防大剣友会事務局記)

《彰古館 往来》
陸自三宿駐屯地・衛生学校
乃木式義手の発見
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 彰古館には、日露戦争後に陸軍大将乃木希典が自ら開発した乃木式義手が白眉として展示されています。
 昨年、実に100年目にして彰古館所蔵品以外の、2個目にあたる義手が発見されました。乃木式義手は世界で初めての作業用能動義手です。現在、九段の戦傷病者史料館「しょうけい館」が、当時の技法そのままに再現したレプリカを作成し、恩賞のシンボルとして展示しています。
 明治39(1906)年1月、日露戦争から凱旋した乃木希典大将は、石黒忠悳軍医総監の自宅で煙草を吸われる度に「どうだい。手の無くなった者はこれが出来ないな。不自由なものだ。君、どうか手の無い者が、これを採って喫む仕掛けの工夫は出来ないだろうか」と幾度も申されました。
 石黒は「それは出来ないことはなかろうが、すこぶる複雑な器械になるだろう」と、義手に関する標本・資料を集めて見せます。
 乃木は「しばらく貸してくれんか」と持ち帰り、自ら図面を引き、板目紙で様々な模型を作り、石黒と何度も相談をして修整を重ねました。これに砲兵工廠の南部麒次郎中佐が検討を加え、完成した義手に石黒は「乃木式義手」と命名しました。
 この義手は、本体を身体に革ベルトで固定し、連接したヤットコを腕につけ、脇の開閉に連動してヤットコが開閉することによって物をつかむことが出来る、世界にも類を見ない作業用能動義手でした。それまでの恩賜の義手は審美的なもので、装飾以外の機能は無かったのですが、この義手により、廃兵は茶碗を持って湯茶を飲み、煙草を喫煙し、筆を持って字も書けるという画期的なものです。
 乃木は「息子を二人亡くして乃木家は跡取りがいない。僕はお金を残す必要はないのだ」と一組50円の義手を自費で作らせ、廃兵に贈り、或いは自ら直接装着してやりました。廃兵から乃木式義手で書いた礼状が届くと、必ず石黒の家まで見せに行き、喜びを共にしたといいます。
 この義手は、石黒が両陛下に展覧して頂きました。陛下は「いかにも便利らしく思う。なお一層の工夫を凝らし、手を失った兵士のために便利なものを一日も早く成就することを望む」と申されました。同年9月、国家医学会雑誌に開発の経緯と天覧について紹介されています。
 明治44年(1911)にはドイツのドレスデンで開かれた衛生博覧会の日本館にも展示され、英国国王戴冠式のため渡欧した乃木も、現地に赴いています。
 石黒は「柿沼要平という一等卒が最も巧みで、義手で細字も良く書いて何不自由無く暮らすようになった」と記録しています。
 義手が発見されたのは、実に柿沼の係累方でした。同時に恩賜の義手の左右一対と石黒忠悳、乃木希典の書き付け、廃兵院院長の手紙などもありました。柿沼がこの義手を拝受してから、実に100年目に発見されたものです。
 縁あって、この柿沼の乃木式義手は彰古館に寄贈されました。さっそく、二つの義手の比較調査が始まっています。

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