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   2003年12月15日号
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「地域と共にある駐屯地」
盛大に創立53周年を祝う
<福知山>
 福知山駐屯地(司令・財城昭彦1佐)は9月13、14日の両日、創立53周年記念日行事を開催した。両日は台風一過の晴天のもと、多数の来賓をはじめ隊員家族・多数の市民が訪れ、文字通り「地域と共にある駐屯地」として大いに賑わった。

市中パレード
 記念日行事初日の13日には、今年で11回目を迎える恒例の市中パレードを行った。
 福知山市の中心地である広小路通りで、各協力諸団体関係者の臨席のもと、約500名の隊員と車両約50両・航空機4機がパレードを行った。
 沿道には、土曜日の午後とあって親子連れを中心として市民の人垣が出来、音楽隊の奏でる行進曲にあわせ、府旗を先頭に隊区8市22町の市長旗が行進を開始、続いてラッパ隊が行進し、観閲部隊指揮官である副連隊長・西山2佐の乗車した指揮通信車が行進した。その後第7普通科連隊の徒歩部隊・車両部隊・更に支援を受けた第3偵察隊・第3特料連隊・第8高射特科群の車両が威風堂々の行進を披露した。最後に上空をヘリ4機が観閲飛行を行った。
 迷彩服に身を包んだ逞しい姿の隊員が広小路通り中央に設置された観閲台を前に敬礼して通りすぎると沿道の観客からは一段と、強い拍手が沸き起こった。
 沿道で見守る市民からは熱い視線が隊員の一挙手・一投足に注がれ、市民からの強い期侍感を肌に感じた。この市中パレードは、全国で6カ所しか行われておらず、まさに地域と共にある駐屯部隊である事を実感していた。

記念式典開催
 翌14日午前10時、福知山訓練場で中村稔市長をはじめ来賓・地域関係者多数が見守る中、記念式典が厳粛に挙行された。
 駐屯地司令は式辞の中で、「福知山駐屯地は苦しい時も、楽しい時も、いつも地域の皆様と共に歩み、歴史を経て正に地域と共にある駐屯地へと発展した事に対し、地域の皆様に深く感謝致します。また昨今の国内外情勢の中、各種の緊急事態への対応やより安定した安全保障環境の構築への貢献、各種災害への対応など、『あらゆる任務に即応できる真に行動できる部隊』たるべく、引き続き努力していく」と決意を示した。
 引き続き、中村市長をはじめ来賓が祝辞を述べた後、第3音楽隊の演奏する行進曲にあわせ、第7普通科連隊を主力とする威風堂々の観閲行進が行われ、観客に精強第7普通科連隊の雄姿をアピールした。
 観閲式終了後ラッパドリル・格闘展示・模擬戦闘訓練などのアトラクションが行われ、特に第7普通科連隊増強第3中隊が実施した模擬戦は実戦さながらの迫力ある訓練で、観客を魅了した。
 その後場所を体育館に移し、福知山自衛隊協力会(谷村紘一会長)主催による祝賀会食が行われた。歓談の途中には、駐屯地53年の歴史をスライド上映で紹介、一つ一つの場面を思いだしOBと現職隊員が昔話に花を咲かせる場面が随所に見られ終始和やかな雰囲気につつまれた。
 また、駐屯地グランドでは、様々な模擬売店や音楽演奏・子供広場・体験試乗等が行われ、家族連れやカップルなど、訪れた見学者は自衛隊をおおいに満喫し、盛会のうちに全ての記念行事を終えた。


大湊地方隊が災害派遣訓練を実施
 9月5日、大湊地方隊(総監・吉川榮治海将)は、青森県北部で震度6弱の直下型地震が発生し、大間町及び風間浦村に大きな被害が発生したという想定で災害派遣訓練を実施した。
 訓練は午前10時に青森県知事から災害派遣要請を受けた大湊地方総監が直ちに大湊警備隊司令(中村和博1佐)を災害派遣部隊の指揮官に任命、大湊警備隊司令は災害派遣部隊を編成し、被災地に派遣した。想定による被災現場となった大湊造修補給所引上げ船台付近の空き地では、指揮官から任務付与を受けた第11、12救援小隊と移動衛生
班が倒壊家屋からの負傷者救出訓練を実施した後、第13、14救援小隊による災害派遣器材の取り扱い法、移動補給工作班によるガスバーナーによる鉄鋼材の切断、移動通信班による被災地から大監までの通信系の設定やパソコンによる画像転送、移動給養班による給食の準備、移動潜水班による岸壁の調査などの各種訓練を実施した。
 各隊員は、実際の場面を想定した訓練に真剣に取り組み、災害派遣における個々の役割を再確認した。なお、この訓練の様子は、地元下北地方の各防災関係者約50名に公開された。

宇都宮駐屯地では新隊員後期教育修了
 宇都宮駐屯地(司令・佐藤次郎1佐)では、第6地対艦ミサイル連隊新隊員課程後期教育隊、第2特科隊新隊員課程後期教育隊は、それぞれ7月から9月の間、後期教育を実施した。
 両教育隊は、それぞれの装備である地対艦ミサイル、FH-70の操法など厳しい訓練を乗り越え、期間後半に実施された総合訓練も無事終了した。
 また、教育期間中、訓練のほか、鬼怒川クリーン作戦や部外マラソン大会参加、男体山登山、大山元帥墓所研修などを実施、同期との絆を深め、団結を強化する貴重な時間を過ごした。
 9月12日には特科隊16名、16日にはミサイル連隊13名の教育修了式がそれぞれ実施され、前期教育修了時よりも更にたくましくなった新隊員が誕生した。

<彰古館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ23〉
X練自動車
 明治31年(1898)、陸軍軍医学校から始まったX線診断ですが、明治33年の北清事変では、配備され始めたばかりのX線装置が大きな成果を挙げました。広島予備病院の2号若しくは3号機でフランス、オーストリア、日本の負傷者289枚が撮影されています。
 この時、同じ連合国のドイツが北京の兵站病院に持ち込んだ野戦用X線装置が軍医たちの目に留まります。これは、2台の荷車にX線装置と電源となる発電装置を積んだものでした。早速ベルリンの駐在武官を通じて、1セットを注文します。翌年春、シーメンス社から届いたこの装置は、東京第一衛戌病院に設置されましたが、野戦での運用の機械も無いまま、廃品となってしまいました。
 明治37・8年(1904・5)の日露戦争では、陸軍はさらに多数のX線装置を兵站病院に配備します。この時、軍医学校の臨床用X線装置を購入し、臨床放射線学の基礎を作った芳賀榮次郎二等軍医正は、旧式化し実用品としての役目を終えた1号機を戦地に持ち込みます。小型ゆえ性能が低い1号機を、小型で運搬・取りまわしの便が良い携行用X線装置として転用したのです。芳賀軍医は第二軍第五師団軍医部長として隷下の第三野戦病院に携行させました。この際撮影された写真は彰古館に現存しております。後方の兵站病院ではなく、戦場における野戦病院でのX線装置の運用は、当時画期的なものでした。これは分解して馬で運んだものですが、この時の経験が、陸軍におけるX線装置の新しい運用法の始まりでした。
 日露戦争の終結後、陸軍では、自動車という新しい装備の導入を開始します。当初は輸入車と、それを分解・スケッチして図面化した国産の軍用車が数台ずつ試作され、大正7年(1918)のシベリア出兵時にはアメリカ製、フランス製のX線自動車が輸入されます。その後、アメリカ製の車体にX線装置を積載したX線自動車が試作されますが、大正12年(1923)の関東大震災で、世田谷区用賀の衛生材料等多くの医療装備と共に焼失してしまいました。
 昭和に入り、国産軍の信頼性が向上しますと、陸軍でもこれを採用し始め、多くの衛生車両が車載化されます。
 昭和7年(1932)にいすヾ自動車製のスミダPCAの車台に搭載した「医療用自動車レントゲン車」が、過酷を極めた走行試験を終え、小改良の後に陸軍に採用されました。
 このレントゲン車は、備え付けのジャッキで車体の水準を取り、車体側板を開放して屋根と床板を張り天幕をつければ、撮影室・現像室・待機室が開設されます。電源は、車両のエンジンから伝達した発電機から取ります。この時点で陸軍は、X線装置自体も信頼性の向上した純国産品を採用しました。
 こうして、明治33年以来模索していた「野戦で使用する、移動が可能なX線装置」は、国産軍用車両に国産X線装置を搭載し、陸軍の制式装備となったのです。
 何時でも、何処でもX線撮影が可能な「レントゲン車」の開発と運用は、陸軍衛生から始まったのです。

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