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   2003年6月15日号
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昭和53年3・4月隊員が25年ぶりに同期生会開く
 4月26日、高田馬場「アルファ・ナイン」において昭和53年3・4月隊員として入隊し、当時、第1普通科連隊新隊員教育隊(練馬)で前期及び後期教育課程を受けた隊員とその基幹要員が集まり、25年ぶりの同期生会を行った。
 今回の同期生会は、今年で入隊25年目を迎える節目の年にも当たることから、現在第1普通科連隊に所属する隊員が中心となり、任期満了退職した同期生等にも声をかけ総勢31人が集まった。
 当日は、早々と受付を済ませたOBが、現職の隊員等と互いに名前と顔を確認しあいながら「懐かしいな〜!」「昔と全然変わらないね!」などと握手を交わし再会を喜びあった。途中、当時の区隊長等が一言ずつ挨拶を行い、中には、涙目になりながらこの日の喜びを熱く語るOBもおり、現職の同期生等は改めて25年という歳月を実感した。
 また、別室で行われていた同じ53年5月隊員の同期生会が一足先に終了し、合流するというハプニングもあり、会場内は二重の再会の喜びと驚きとで一段と盛り上がった。そして最後に合同で集合写真を撮り、25年ぶりの同期生会は盛会裡のうちに閉会し、参加者はまたの再会を誓い合った。(東京地連・須賀芳夫1曹)

五稜郭祭に参加
28普連
当時の戦闘を再現する隊員
 第28普通科連隊(函館)は5月17、18の両日、連隊長・郡山勝英1佐をはじめ隊員83名が函館五稜郭祭に参加した。
 17日は五稜郭祭「碑前祭」が執り行われ、五稜郭戦争で戦没した登場人物の石碑を訪れて先人「中島三郎助・土方歳三等」を祭った。
 翌18日には、函館市内を維新行列「パレード」を、また、パレード途中の五稜郭繁華街で、当時の戦闘を再現するパフォーマンスを行い、参加した隊員は祭りを大いに盛り上げ、観衆から沢山の拍手を浴びていた。

特攻慰霊祭に音楽支援
国分
 第12普通科連隊(連隊長・川久保源映1佐)の音楽部(部長・張田清彦曹長)は5月25日、加世田市の平和祈念館慰霊碑前で行われた万世特攻慰霊碑の第32回慰霊祭を支援した。
 慰霊祭は、昭和47年に碑ができて以来、毎年行われ、今年で32回目。全国から集まった旧隊員や遺族ら約300人が参列し、音楽部の演奏により参列者全員で国歌斉唱、そして、御霊に黙とうを捧げた。その後、追悼の言葉が述べられ、出席老全員が献花した。終戦間際に万世陸軍航空基地から出撃、戦死した特攻兵士や基地関係戦没者のめい福を祈り、平和の誓いを新たにした。
 同基地は本土防衛と沖縄決戦の基地として昭和20年3月末から稼働。8月の終戦までに201人が戦死した。
陸軍少年飛行兵14期生慰霊祭も支援
 第12普通科連隊(連隊長・川久保源映1佐)の音楽部(部長・張田情彦曹長)は5月2日知覧特攻平和記念館で行われた陸軍少佐飛行兵14期生慰霊祭を支援した。
 この地は、昭和17年3月大刀洗陸軍飛行学校知覧分校が設けられた連日隊員の訓練を重ねたところであったが、国際状勢が次第に緊迫し、険悪となる。遂に、昭和20年本土最南端航空基地として、陸軍最後の特攻基地となり、凡そ一千の若き勇士が、完爾として祖国と家族の為に遥か沖縄をめざし、帰らざる旅へとつかれた思い出深い土地である。
 その中に同期生40名が含まれており、この慰霊祭は全国に散らばったその同期生らにより行われ、本年は約200名の中、遠くは青森より集まった。
 式典は、音楽部の演奏による国旗掲揚から始まり、参加者全員による黙とう・焼香へとしめやかに進み、記念演奏の後同期の桜合唱で締めくくられた。
 多くの同期生が70代後半から80代となり又年々と、参加者が少なくなっていく中、お互いの健康と来年の再会を誓い合って、特攻平和記念館を後にした。

<彰古館往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ 17〉
缶かがり
 明治37、38年(1904〜5)の日露戦争は激動の20世紀でも、第二次世界大戦とともに日本がかつて経験したことのない規模の大戦争でした。
 彰古館の所蔵史料によると、戦死者数は4万6,432人を数え、戦傷者数は実に15万3,632人と20万人にも及ぶ死傷者を出して集結したのです。その他、戦没全期間中の総入院者数は116万8,076人と陸軍の衛生機関にとっても正に未曾有の戦いでした。
 長期化の様相を呈していた明治39年1月1日、ロシア軍要塞司令官ステッセル大将の降伏の親書を携えた軍使が白旗を掲げて前線にやってきます。翌2日、水師営において旅順開城の調印がされ、多大な犠牲を出した日露戦争は、ここに終結したのです。
 今回ご紹介するのは、この水師営の会談の現場から持ち帰られた記念品です。写真をご覧戴くとお分かりのように、一見すると単なる空き缶で、失礼ながら説明が無ければ燃えないゴミとして捨てられてもおかしくないような展示品です。後に、陸軍軍医学校の参考館の所蔵品リストと照合した結果、昭和天皇にも天覧した由緒正しい逸品だということが判明いたしました。
 まず、本体に書かれた文字は「カンカガリ」とあります。これは「空き缶のかがり火」を洒落たもので、この品に限ってつけられた造語です。
 降伏の軍使を迎え入れた元旦の夜「明ク二日、貴所ヲ日露両軍使会見所ニ当ツルヲ以テ準備セヨ」と包帯所(前線の病院)に第一師団の命令が届きます。包帯所では手術室を会見室として天井と周囲の壁に白布を張り、2台の手術台も手術用白布で覆われて会見卓となったのです。史実では、実にあっけなく調印が終わったとされていますが、彰古館の史料によると会談自体の史料によると会談自体は午後1時から深夜11時まで及んだといいます。
 さて、この当時第一師団衛生隊の各包帯所では、前線ゆえ不足がちのカンテラに代わって独自の野戦用急造照明具を作成していました。これが「カンカガリ」です。
 当時、戦時用の携行食として「牛肉の大和煮」の缶詰めが支給されていました。この缶詰めは味が濃いため飽きやすく、また、めったに肉にお目にかかれないと評判の缶詰めでしたが、包帯所では、この空き缶の縁に2箇所穴をあけ、拾ってきた鉄条網をその穴に通して取っ手を付けます。当時の鉄条網は、現在の有刺鉄線のようなトゲの付いた物ではなく、単純な針金です。この取っ手付きの空き缶に、いらなくなった包帯くずや三角巾などを集めて手毬のように固く巻いたボールを入れ、石油を浸して火をともしたのです。
 1月5日には、水師営で乃木希典大将とステッセル大将の会談が行われ、後には現地に記念碑が立てられています。
 この歴史的な会見の現場にはカンカガリを「二十余個ヲ点ジテ、照明ニ資セリ」と記録にあります。
 彰古館に展示されている1個のみすぼらしい空き缶には、実は日本の歴史の貴重な目撃者という素晴らしい経歴があったのです。

〈訂正〉5月15日号「防衛庁・自衛隊高級幹部等名簿」の中に誤りがありましたので訂正するととむに関係者の方々にお詫び致します。正しくは次のとおりです。▽陸自研究本部総務部長・本多將城事務官▽陸自国分駐屯地司令・川久保源映1佐▽陸自第5後方支援連隊長・福田敏1佐▽陸自補給統制本部主計課長・長谷友敬1佐▽陸自関東補給処落下傘部長・田淵精一1佐▽札幌地連の住所「札幌市中央区北四条西15丁目」

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