講議では、魏志倭人伝の記述内容を考察し、倭国(日本)において槨(棺を納める部屋)が発生した年代を西暦266年から285年頃までの時期にあったと論じ、槨が存在する幾内の前方後円墳は卑弥呼の時代(〜西暦247)にはとどかないことをあきらかにする。そして、「卑弥呼の時代には『槨』がなかった」とする魏志倭人伝の記述や、皇位継承の象徴として現在に引き継がれている「三種の神器(鏡・玉・剣)」が弥生時代における北部九州の墓制にその源があることなどを踏まえ、卑弥呼が死亡(西暦248年以降)した後に、力(遺跡や遺物)の重心が吉備(瀬戸内海)を経由して幾内にもたらされたと論ずる。しかるのち、魏志倭人伝と記紀の記述内容を比較し、卑弥呼が天照大神であることを論証。現地に残る地名や神社記、記紀を総合的に考察し、活動領域や墳墓が北部九州にあったことを明らかにする。 後半は、「邪馬台国の所在地と記紀の年代対応が確定した」とする前提で論旨を展開する。すなわち、古事記を編纂した太安萬侶が序文で、「小濱に論ひて国土を清め…ニニギの命、初めて高千穂に降り…」と記述する背景には、邪馬台国の遠大な二正面戦略がかくされていると洞察し、軍事の視点からその全貌を明らかにする。とくに神武天皇が東征を開始する直前、九州全域はもちろん、中国方面(出雲国や吉備国)も、すでに邪馬台国の勢力圏であったと論じ、神武東征は単なる神話に過ぎないとした定説を全面的に否定し、事実であったことを軍事の視点から論証する。 最後に、邪馬台国問題を科学の力で検証し、総意をもって確定する作業をおこなう必要があると論じて講演を終了する予定。 <日時>7月13日(日)13時30分〜16時30分 <場所>「きゅうりあん」6階大会議室(JR京浜東北線 大井町駅 徒歩1分) <会費>1500円