勝海舟(1827-1899)は幕末の偉人である。日本の近代史上最大の内戦戊辰戦争において、幕府の軍事総裁として官軍参謀西郷隆盛と会見、江戸城無血開城を実現させた。海舟は日本近代化の体制変革(明治維新)を平和裏に進めた人として史上高く評価されている。
しかし、海舟を批判する人も多かった。一人は福澤諭吉である。福澤は自己の主催する時事新報に「痩せ我慢の説」を公表して海舟を批判した。曰く、戊辰戦争に際し、徳川幕府が戦わず薩長に降伏したことは立国の士風を大いに損なった。勝ち目がなくても戦い抜くのは武士の痩せ我慢であるが、痩せ我慢の士風こそ立国(国の独立)の根本である。その後海舟が新政府の高官になったこともいかがなものか、と。福澤は公表前に海舟に原稿を送り、意見を求めた。これに対し海舟は、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候(やったことは自分の責任。それをけなしたりほめたりすることは他人の主張で、自分には関係ない。どなたにお示しいただいても結構です)」と返信し、何の言い訳もしなかった。
独立自尊を説き、日本人の精神と文明を高めようとした福澤諭吉は、明治のおそらく最高の啓蒙思想家である。痩せ我慢の説に共感する人も多い。しかし、私はこの件に関しては福澤よりも海舟を評価する。海舟の判断と行動は、現実の難局に直面した幕府の責任者としての重い決断であった。その任になく、やや評論家的な福澤とは異なる。海舟は別のところで、「福澤は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ」と言っている。私は日本のために海舟の判断と行動が正しかったと思う。実際、あのとき幕府が薩長と戦っていたら、内乱が長期化し、近代国家の建設が大きく遅れた可能性がある。
日本の近現代史のなかで勝海舟の評価は確立している。半藤一利さんのように海舟に心酔する人もいる。私の父は普通の市井の人であったが、歴史に関心があり、生前、幕末明治の歴史人物のなかで勝海舟が一番偉いようだと言っていた。
江戸城無血開城を達成した両雄の勝海舟は知者、西郷隆盛は仁者と一般に評される。では勝海舟はいかなる知者だったのか。困難を極めた幕末明治の動乱期を誤ることなく生き抜いた勝海舟の知力は、困難に直面する現代日本の未来を開く知の鍵となるかもしれない。
勝海舟は非常に開明的な知者であり、常に「私理」でない「公理」を追及した。そして公明正大な知と行動を好んだ。
海舟は徳川幕府に「私理」があるのを見た。日本を統治する政府は「公理」で動くものでなければならない。海舟の知は幕府を超えた日本を見ていた。そして、恭順する幕府を武力で倒そうとする官軍・薩長に、今度は「私理」をみた。この「公理」意識が西郷との会談に望む海舟の気迫となった。
ペリーが来航し、日本は和親条約を結び、開国する。その後ハリスが来日して貿易のための通商条約締結を迫り、幕府は勅許の得られぬまま条約に調印した。幕府はハリスの恫喝に屈したという非難が国内に起きた。これに対し海舟は、ハリスの主張には天下(世界)の「公理」があり、日本(幕府)は国内の「私理」で対応した。だから負けたのだ、恫喝に屈したのではない、と言った。
勝海舟の知についてやや深く次回考えてみたい。
(令和5年6月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |