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自衛隊ニュース   2008年4月15日号
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《彰古館 往来》
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ74>
乃木式義手の発見(4)
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 乃木大将が世界で初めて自分で物がつかめる義手を開発し、柿沼要平が使用者の立場から意見具申をして改良が続けられました。
 しかし、この画期的な義手が、なぜ一般化しなかったのでしょうか?
 それはひとつには、当時の義手に対する考え方がありました。
 戦争によって、本来あった腕や足を無くし、生まれた時の姿と異形になったのが廃兵と呼ばれた戦傷者達です。これを元に近い姿に整えるのが、恩賜の義手に代表される審美的な義手です。義足の場合は、両足で起立するという基本的な機能に付随して、切断部位によっては歩くという機能を持たせた義足が、比較的早い段階で開発されています。
 しかし、手の場合はその機能が複雑であり、当時の技術では、審美的、機能的の両方の要件を併せ持つ義手は存在しませんでした。
 機能だけを追及すれば、乃木式義手のように、人間の腕とは異なった外見の作業用義手は開発できます。
 しかし、まだ当時の義手は、公式の場に出るなど正装した時に装着するといった、審美的な義手しか受け入れられていなかったのです。機能を追及した作業用義手が完成を見るのは、やっと昭和期に入ってからのことでした。
 実際に明治天皇、昭憲皇后に天覧した際にも「陸軍として将来採用するためには、まず学理として認められなければならない」と石黒忠悳軍医総監は述べています。全く新しい発想による義手には、従来の基準が適用されなかったのです。
 もうひとつの理由が、乃木式義手を拝受できる対象者が限定されていたという事実です。「両手を無くした」将兵で、しかも肘関節が残存し、その機能が正常で、切断部位にも条件がありました。かつて無かった大量の負傷者を出した日露戦争においても、これらの条件を満たす兵士の数は、そう多くは無かったのです。
 大雑把な推論ですが、当時廃兵院に入院していた患者の数と、治験記事から対象を絞り込むと、およそ20名内外だったと考えられます。中央乃木会では義手の数を50としていますが、出典は不明です。あるいは、乃木大将の日記に記録されている可能性もあります。
 いずれにしても、柿沼が同時に下賜された恩賜の義手は、全くの新品状態で現存しており、使い込まれ、修理を加えた後の残る乃木式義手とは対照的です。
 晩年の柿沼は、手の無い腕で、東京まで薬の行商にも行き、野良仕事もこなし、孫を抱いて風呂にも入れ、両腕に筆を巧みに挟んで字を書いていました。
 柿沼は乃木式義手に依存することなく、更に乃木式義手が無くても出来ることを、日常的に増やしていったのでしょう。そんな柿沼に対しては石黒忠悳軍医総監は(日本赤十字社社長当時)乃木大将の思い出を漢詩にして送っています。
 柿沼にとっての乃木式義手は、必要不可欠な「実用品」から、手が無くても家族を養っていける自信を付けてくれた「記念品」へと昇華したのです。
 柿沼が天寿を全うしたのは、石黒軍医総監が瞑目したその日のことでした。


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