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開設50周年を祝う |
<富士学校・富士駐屯地> |
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富士学校・富士駐屯地開設50周年記念行事が、7月18日同校全域を開放して賑やかに行われた。
自衛隊の行事でも名物の一つに数えられ全国から多くのファンが集まる同校の開設記念行事。ことしは1954年8月に開校してからちょうど半世紀の節目とあって関係者の力の入れ方は大変なもの、それと同じようにファン、マニアも大きな期待で朝8時前からおしかけた。
ふれあい広場にはストラックアウト、ミニバスケなどチビッコ向けのゲームが用意され早々と順番待ちの人気で係の隊員も汗だくの大サービス。その周りには百を越える売店や隊員による模擬売店が設置され一日中売る人買う人の声が交差していた。
記念式典は隊員約2000名、車両約300両と観客約1万人が見守る中、総合訓練場で10時15分から行われ、柳澤壽昭学校長兼駐屯地司令(陸将)らの巡閲そして、同学校長の訓辞、石川嘉延静岡知事、斉藤斗志二、細野豪志衆議院議員らの祝辞があった。
このあといよいよ観閲行進。ロープで仕切られた最前列に座っている人たちは最新鋭の戦車や装甲車が地響きを立てて走る豪快さに騒然、砂ぼこりや排気ガスも肌に感じて大喜び、親子、友人同志、グループで大きな声をあげて本物を実感していた(=写真)。
模擬店では空地一体となった展示。ヘリの急上昇、急降下、偵察オートバイの走行射撃(立ち射ち)ジャンプなどで目を引きつけたあと、90式戦車や99式自走155mmりゅう弾砲などの空砲射撃。撃ての合図はあるもののその発射音にあわてて耳をふさぎ、どよめき、驚きの声をあげて、全身を大きく反応させつづける観客席。最後にイラクで活躍する96式輸送装甲車も登場、みんな大満足のビックショーだった。
同日、体験搭乗・装備展示・資料館公開、作品展示(隊員家族や地元小学生ら)、防災展示らも行われた。 |
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富士学校機甲科部が故田熊3佐殉職の地で安全を祈願 |
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暉子夫人が献花 |
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陸上自衛隊富士学校機甲科部(部長・内田陸将補)は、梅雨入りしたとは思えぬ快晴の6月14日、故田熊3佐の殉職の地で安全祈願行事を実施した。
昭和43年6月14日、富士山麓に広がる東富士演習場で、機甲科部訓練班教官として故田熊教官は幹部初級課程学生(防大11期生)に対し、戦車小隊訓練(攻撃)を跨乗指導中だったが、躍進間、鬱蒼とした灌木林の中に地隙を発見、乗員に警告を発しながら車長を戦闘室内に押し下げた後、自らは滑落転覆したM24軽戦車により壮烈なる殉職を遂げられた。
この行事は、こよなく機甲科を愛し、烈々たる気迫と深い愛情をもって専心、後輩の育成に努められた従六位・勲六等田熊嗣利教官(防大2期生)を偲ぶとともに訓練の安全を祈願する目的で毎年、機甲科部職員と近傍部隊長らが慰霊碑のもとに集まり、実施しているもので、今年度は37回忌の節目に当たる。大阪から故田熊3佐夫人の田熊暉子さん、当時の学生であった防大11期生W代表して安藤博氏と中隊長時代の部下の村松氏を迎え、富士学校長・柳澤陸将補以下学校職員、第1機甲教育隊、戦車・偵察教導隊等及び学生を含めて約200名の参列のもと、富士学校音楽隊による「海ゆかば」の奏楽と職員による弔銃の響く厳粛な雰囲気の中、故人の遺徳を称えるとともに御霊の安らかならんことを祈念した。
故田熊教官の遺影を前に、執行者である内田機甲科部長の「田熊教官を模範とし、その遺訓を永く後世に伝えることが我々の使命である。多様化する様々な任務に直面し、行動して評価される自衛隊にあって真の武力集団の原点たる戦闘精神の普及啓蒙に精進する」との慰霊の言葉に引き継ぎ、参列者代表による献花・献酒、参列者全員による焼香が行われ、滞りなく行事を終了した。
機甲科部では、尊い命を賭して学生教育に情熱を傾けられた故田熊教官の志と部隊精強化の夢を風化させることなく継承し、旺盛な機甲科精神を有する幹部・隊員の育成に引き続き邁進するとしている |
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<論陣> |
明治でも家庭教育は大切だった |
<古い綜合誌の小論文から> |
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おばあちゃんが、可愛いはずの孫2人の首をヒモで絞める。その理由は「嫁を困らせようと思った」。父親が泣きやまないからといってわが子を刃物で刺し殺した。そんな事件があまりにも多く起き過ぎている。日本の家庭は狂い始めているのか。家庭教育の重要性を再認識すべきだーマスコミは、時折り著名な教育者の話などを引用して、お説教調の記事を掲載している。家庭教育とは、いま始まった問題ではないはずだ。そんな疑問を抱きながら
古い日本の雑誌を読んでいた。古いといっても10年や20年ぐらい前の本ではない。明治29年11月5日付の綜合雑誌「太陽」=東京・博文堂発行=である。当時の知識人を対象に発行された「太陽」は、論文、談話集、政界動向、文学、教育、外国動向などがぎっしり詰まったいわば文献集で月2回発行で1部15銭である。その中に「家庭教育は一大協同事業である」の一文と「教育に対する父兄の注意」の小論文があった。
読むうちに驚いた。「協同事業」の文(塚本はま子)には、家庭内での祖父母の位置付け、家庭教育上のs注意。父母が置かれた立場、わが子への接っし方、将来、わが子を社会人として育てる方法、他人の子どもとの接っし方などが詳しく述べられている。
一方、「教育上の注意」(宮地厳夫談)では、家庭内で親が子どもを向上心を持つ人物に育てるためには、どんな方法をとればいいかなどを具体的に演説調で述べられている。
「協同事業」では、現代の核家族化の下では、あまり論じられてはいないが、祖父母は、自分達の子どもすなわち夫婦の生活に全く無頓着ではいけないが、夫婦のやることに逐一、干渉すべきではない。その中で特に大切なことは、孫がいる前で、その両親(夫婦)をひどい言葉で批判したり、干渉してはならないと力説している。その理由は、自分の父母が祖父母から批判されているのを見た子どもは、『父母には力がない』と思い込み、両親を尊敬する気持ちを失うだけでなく、時として軽べつするようになるからだと説いている。
父母、子などの間で大切なことは「約束を守る」「ウソをつかない」ことであり、一家中で「一日一善」でいいから、なるべく子どもと一緒に良い行いをする努力をすることが大切である。
他人の子どもに対しては、とかく無責任になりがちだが、悪いことをしたときには、はっきり叱る必要があるとも述べている。いまの世の中で決定的に足りないところかも知れない。
他人の子どもが両親と一緒に来たとき最も注意しなければならないのは“お菓子”である。わが国では来客があると上等の菓子を提供するくせがあるが、これは止めたほうがよろしい。間食の習慣を作るし、人が来れば上菓子を出して、相手の子どもを誉める。このことが、いい風習を作り出すとは思えない。もし、菓子を出すのなら、日頃、その家で普通食べているようなものを出せばいい。
子どもの前で他人の悪口、うらみ言、やきもち話などを並べたててはならない。こうしたもののほとんどは、自分を正しいと思わせるための話で、決して、子どもの目から見聞しても気持ちのいいものではない。家庭内での良い風俗を作ることは、必ず将来「国家の良い風俗」になっていくと結んでいる。
「注意」の文では、父が子どもに対しての教育上の課題を述べている。別に幼い子どもに数学や文学を教えろなど堅苦しいことをいっているのではない。例えば電車に乗ったとする。そのとき、ただ、子どもの手を引っぱって漠然と乗るのではなく「これは◯線でどこ駅からどこ駅まで行くのよ」とか、有名な寺社(例は靖国神社)に参詣したときには「ここは誰が祀られていて、◯年前に建ったのだ」、タンスは「なぜ一棹(さお)と数えるのか」「めんたいこはどうしてひと腹と数えるのか」「お寿司の一かん(貫)。なぜ?」など、子どもが興味を抱きそうなことを分かり易く、おもしろく説明してやることから始めると、子どもは“勉強”に興味を持ち出し、それが調査、検討、思考、分析、仮説と進化し、将来、勉強が好きな人に育つのだという。明治時代も平成のいまも家庭教育は社会問題であることは明白。夏休みの小さな子どもさん教育の参考にできればー。 |
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須走で東富士を撮り続けて50年 |
富士本屋寫眞館 佐藤欣一氏 |
<シリーズ (2)> |
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昭和14年の輜重兵部隊。輜は衣類をのせるものを指し、重は荷をのせるものを指す。輜重兵部隊は、自動車部隊と輓馬部隊(馬車による輸送を任務とする)に分かれていた。 |
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歩兵の雪中訓練。現在の東富士演習場付近にて。重機関銃の運搬を行っている。 |
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銃砲の運搬風景。これより少し前の時代では、馬6頭で運搬していた。 |
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