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彰古館往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校 シリーズ(20)
日本初の脳外科手術
西南戦争負傷兵にほどこす
明治10(1877)年の西南戦争は、陸軍創設以来初めて経験する大戦争でした。この時、西郷隆盛以下1万2千人の反乱軍に対峙した陸軍の戦闘員の動員数は4万5千819人、死傷者は実に1万6千268人に上ったのです。
戦争行為全体から見れば、医学は戦争遂行のための補助手段と言えますが、軍陣医学の側面からは、大量の臨床例を一時期に得られる絶好の機会だったのです。
それまで、海外の文献で見聞していた症例を目前にして、軍医たちのレベルは飛躍的に向上します。
重傷者は、戦地の九州から大阪陸軍臨時病院に船で後送され、ここで新しい症例に対して、新しい治療方法が試されたのです。
その中には、なんと日本で初めての脳外科手術が含まれています。彰古館の記録によると、6例が手術され、3例が亡くなっておりますが、残る3例については治癒しております。
最初の手術は、順天堂病院から陸軍に出仕していた病院長の佐藤進が行っております。佐藤は日本人として初めてドイツ留学を果たし、欧州の最新の外科を学んでいました。明治10年5月3日、頭部に銃弾を受けた34歳の兵士は、佐藤院長によって、頭蓋骨と硬脳膜の間にあった弾丸の摘出に成功します。手術後は食欲もあり回復に向かっていましたが、10日後に肺炎を併発して亡くなりました。
その後、戦役終了につき、順天堂に戻った佐藤の後を受け、石黒忠直が院長となります。9月2日、長崎軍団病院から大越政蔵が大阪臨時病院に転院して来ました。弾丸が頭部をかすめた後、意識が朦朧とし、ひどい頭痛に悩まされ、温泉治療を受けていたものです。
石黒は、グロス氏の著書にあった「一見すると、頭蓋骨には損傷が無いが、着弾のショックでその内板が破砕した症例」と類似点が多い事に気付きます。11月8日、石黒と助手1名が大越に迷朦薬(クロロホルム)を嗅がせ、手術を行います。頭皮を十字に切って四方に反転し、丸鋸で頭蓋骨を開けてみると、やはり内板が砕けておりました。その破片をすべて摘出して手術は終了しました。
手術後も、頭痛とめまいが残りますが、日に日に改善してゆきます。12月10日、大阪臨時病院の閉鎖に伴い、東京陸軍本病院に船で運ばれますが、翌年2月には支障なく歩行が出来るまでになり、心配されていた脳症の発症も無く、鉄の帽子を支給されて、千葉の故郷に帰りました。
それから25年間、大越は毎年東京の石黒の家やって来ます。入院時の四方山話をし、一晩泊まって帰って行くのです。石黒は「命を助けられた恩を忘れずに、毎年御礼に来るのは感心だ」と考えていました。
実は、大越は堀の内の日蓮様を信心しており「助かったのは日蓮さまのおかげ」と年一回お参りにきていたのでした。石黒宅を宿屋代わりにしていたのです。後に、これを知った石黒は大笑いをしたそうです。
日本の脳外科の歴史は、明治10年の大阪陸軍臨時病院で始まったのです。
彰古館は、その証拠となる史料を所蔵しています。
自衛隊との連携を強化
1都10県募集連絡会議開く
<東京地連>
東京地連(部長・用田和仁陸将補)は8月21日から22日の間、第一ホテル光が丘(東京都練馬区)と陸上自衛隊朝霞駐屯地で、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、新潟、山梨、長野、静岡の1都10県と内局をはじめ方面、師団、地連、海・空自の募集担当者等が集まり行われた東部方面総監主催「平成15年度都県募集連絡会議」の支援を行った。
都県募集連絡会議は昭和40年から行われており今年で38回目を迎え、今回は東京地連が担当地連として全般を支援した。
初日の会議は、東部方面総監・菅博敏陸将、東京都副知事・福永正通氏に続いて防衛庁人事教育局人事第2課・高橋憲一課長の挨拶で始まり、その後、募集の概要や陸・海・空各方面隊の部隊の現況などについて発表が行われた。続いて各県の自衛官募集施策などが紹介され、会場内は活発な意見交換の場となった。
2日目は、朝霞駐屯地北グランドでヘリコプター「UH-1J」2機による体験搭乗と陸上自衛隊広報センターの研修が行われ、都県からの参加者は、見て・触れて、体感し、改めて自衛隊に対する理解と認識を深めるとともに今後とも自衛隊との連携を維持強化していくことを誓った。
援護担当者90名が就職状況を意見交換
8月7日、防衛庁E-2棟2階会議室で東京地連をはじめ部内外の就職援護関係機関等の担当者、延べ約90人が出席し、「東京都自衛隊退職予定隊員就職連絡会議」及び「首都圏中枢地域援護担当者会同」を開催した。
午前10時から行われた東京都自衛隊退職予定隊員就職連絡会議では、東京地連の澤田昭二副部長が主催者挨拶を行い、続いて東京労働局職業安定部職業対策課長代理・仲泊弘光厚生労働事務官、(財)自衛隊援護協会東京支部・小島捷利援護課長、陸自東方総監部援護業務課・竹下秀毅2佐がそれぞれ挨拶し、都内における就職状況等について意見交換を行った。
午後には、首都圏中枢地域援護担当者会同が行われ、東京地連・用田和仁部長が主催者挨拶を行い、東方援護業務課企画班長・高橋2佐が挨拶、陸・海・空各部隊等の援護実施状況等について意見交換が行われ、参加者はより一層連携を強化して行くことを誓った。
採用説明会を開催
東京地連(部長・用田和仁陸将補)は7月25日、グランドヒル市ヶ谷で学生ら約100名の参加を得て、防衛大学校、防衛医科大学校、航空学生、看護学生、一般曹候補学生、曹候補士及び2等陸海空士の「自衛隊採用説明会」を大々的に行った。
説明会は、午後1時30分から午後4時の間、フリータイムで行われた。当初、瑠璃西の間で各種目の全般的な説明が逐次行われ、その後、広報写真パネルや各種制服等が展示された瑠璃中・東の間で各種目毎の説明会が行われた。
各種目の担当官やカレッジリクルータは自身の体験談などを含めそれぞれの種目の教育内容や入隊・入校後の生活環境等について熱く語り、これから採用試験を受けようとする学生らの不安を解消した。
武道合わせて48段
桑原曹長(熊本地連)、演武回数1,000回超える
熊本地連の広報官・桑原三四郎陸曹長は武道合わせて48段の腕前。募集広報の傍ら、地域の各種イベントに招待され、特技の杖道を披露、多くの住民に感銘を与えている。
また、これまでに、天皇陛下、総理大臣、諸外国高官、防衛庁長官・統幕議長・陸幕長をはじめとする各種招宴で特別演武し高い評価を受けている。
演武回数は千回を超え、日本武道代表団の一員として諸外国に派遣されるなど、各国との友好親善にも努めている。
※なお、桑原曹長への演武依頼は2カ月前までに西部方面曹友会または熊本地連(電話8・99・3507)へ。
<話題の新刊>
スポーツ愛好者には、必読の書
世界最強ゴルファーはこうして生まれた
タイガー・ウッズを育てた男たち
米国ゴルフ記者協会 デューク石川 著
今シーズン、メジャートーナメントでの優勝は逃したが、依然として世界ランクでダントツを走るタイガー・ウッズ。
ちなみにウッズの最新のポイント16.48に対し、2位のアーニー・エルスのポイントは9.63。日本の丸山茂樹は2.01。この違いだけでも、ウッズの凄さが判る。
そんなウッズを4歳から10歳まで指導したプロが、カリフォルニア在住のルディ・デュラン。そしてウッズが2年間を過ごしたスタンフォード大のゴルフ部監督がウォーリー・グッドウインである。
この本『世界最強ゴルファーは、こうして生まれた』は、二人の指導者が、如何にしてウッズにゴルフの基礎を教え込んだか。その具体的な指導の詳細。更には子供の頃を中心に、ウッズの優秀さを物語るエピソードを満載している。
筆者は米国ゴルフ記者協会会員のデューク石川氏。ウッズを中学時代から取材してきた彼は、次のように推薦する。
「誰しもタイガーになることは不可能。然しタイガーの成長の過程を知ることで、読者一人々々のゴルフの上達に結びつく。また天才少年タイガーに、甘やかさずに接したルディの指導方法は、ゴルフだけに留まらず、青少年の優れた教科書だ。その優秀性は、ルディのメソッドで育った最優秀ゴルファーが、世界最強のゴルファーと言う厳然たる事実が証明している」
なお、各ページにはテレビには映らないウッズの写真が、数多く掲載されている。スポーツ愛好者には、必読の書である。(選択エージェンシー 電話 3432-6251。定価1,500円)
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