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   2003年4月15日号
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防医大では初の快挙
第9回全自衛隊レスリング選手権大会
熊谷学生、準優勝に輝く
 第9回全自衛隊レスリング選手権大会が2月2、3の両日、自衛隊体育学校総合体育館で行われ、74キロ級の部で防衛医科大学校(一ノ渡尚道学校長)レスリング部の第3学年・熊谷光祐学生が見事準優勝に輝いた(=写真)。
 熊谷学生は、1回戦フォール勝ち、2回戦判定勝ち、3回戦テクニカルフォール勝ちと快進撃を続け、準決勝に進出。この試合でもフォール勝ちを収め、いよいよ決勝戦。開始直後にタックルを受けて倒されたが、「あきらめたら、やらなかったことになる」と、その後は奮起して善戦し、勝負結果は判定へ委ねられた。結局6-3で判定負けとなり、優勝の栄冠を手にすることはできなかったものの、準優勝という堂々の成績を収めた。
 また、熊谷学生の試合内容は各審判からも高く評価され、敢闘賞も併せて受賞するという快挙を成し遂げた。
 熊谷学生は、中学校、高校と柔道部に所属。防衛医大入校後は、柔道部とレスリング部を兼部し、学業との両立を目標として頑張ってきた。この大会でその結果が見事証明されたことになり、学校職員一同、熊谷学生の今後の更なる活躍に期待している。

米海兵隊と教育交流 体校
パードロン軍曹が格闘課程修了
「日米融合の新しいシステム目指す」
 自衛隊体育学校(校長・那須誠陸将補)の第1教育課(課長・松本敏郎1空佐)では、米海兵隊との教育交流の一環として第75期陸曹格闘課程(1月8日から3月11日の期間)にケビン・W・パードロン米1等軍曹の留学受け入れを行った。
 パードロン軍曹は、第3海兵機動展開部隊第1海兵航空団第18準備支援派遣隊(普天間)に所属している下士官で、合気道2級、剣道初段の特技と日本人の妻を持つ親日家だ。
 訓練中は、初めての挑戦となる徒手・銃剣道格闘に意欲的に取り組み、流暢な日本語とユーモラスな性格も手伝って自衛官の同期生ともすぐに打ち溶け、お互いに刺激し合える間柄にまでなった。
 3月11日、同校で40人の同期生と共に修了式を迎えたパードロン軍曹は、この8週間の成果について「海兵隊でも体校の教育を生かした新しい徒手・銃剣格闘のプログラムを作りたい」と話し、「アメリカのスタイルはパワーが中心だけど、日本は技とスピードがあって奥が深い。両方の良い面を融合したシステムの実現に向けてこれからも頑張りたい」と抱負を語っていた。
 また、専門用語には一番苦労させられたと言葉の壁があったことを明かしながらも「質問に丁寧に答えてくれた教官とフレンドリーな北海道、横須賀、沖縄のルームメイトが助けになってくれ、休日も楽しく充実していた」とすっかり仲良くなった仲間との別れを惜しんでいた。
 海兵隊との教育交流は、平成13年度からはじまり、同年は小平学校陸曹情報課程に海兵隊軍曹1名が留学、陸曹1名を沖縄の海兵隊幕僚下士官学校に派遣している。また、体校への留学生は昭和56年にシンガポール、57年にタイからの士官を受け入れて以来3人目となる。

全日本選抜ライフル射撃大会
山下2曹、自己新でV
 全日本選抜ライフル射撃競技大会(エアライフル種目)が3月8、9の両日、大阪能勢町ライフル射撃場で開催され、これに体育学校選手7名が出場。山下敏和2曹が自己新記録で優勝を果たした。
 同大会は、今年度のAR種目の上位選抜選手24名が同種目を2日間で2回競い合うハイレベルな大会とされている。
 山下選手は、アジア大会の予選会に向けての日々の訓練も順調な仕上がりをみせており、大会初日には、自己新記録の696.8点をマークで首位に。2日目は更に1点上げ、記録を更新し、圧倒的な強さで初優勝を飾った。
 他の出場選手の成績は次の通り。
 10mS60男子▽柳田勝=4位▽谷島緑=7位▽栗田直紀=14位
 10mS40女子▽増渕真理=5位▽太田優子=10位▽川崎晃子=19位

彰古館往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
軍医学校五十周年記念塔(4)
 記念塔の台座正面には、昭和6年(1931)の満州事変に於ける陸軍衛生部員の像が据え付けられていました。負傷兵を収容する衛生下士官と指示を出す軍医、介助と応急処置をする2名の衛生兵、担架上で半身を起こした足部を負傷した歩兵将校の群像です。制作に当たっては、現役の衛生部員が、当時の服装・装備を装着してモデルとなったそうです。残念ながらこの彫像は現存していません。
 この他に記念塔の存在を伝えるものに鉛の筒が有ります。これは、昭和12年(1937)2月21日、建築中の記念塔内部に格納されたもので、寄付者6千人の名簿が納められています。
 計画当初は、銅板のエッチング製の名簿になる予定でした。実際には鳥の子紙に浄書した名簿を、分厚いガラス管に真空密封した上で鉛筒に収め、鉛で封印したものです。彰古館に現存する現品は、少し変形していますが、その表面には「陸軍軍医学校、創立五十周年祝典、寄付者連名簿」「記念塔下ニ収メ芳名ヲ千載ニ伝フ」「昭和十二年二月十八日(実際の格納は21日)」と刻まれています。鉛という比較的柔らかい金属に彫られた文字ですが、66年の年月を経過した現在でもはっきり読むことができます。
 現存する4枚のレリーフと鉛筒以外の、その他の彫像などは一体どうなったのでしょうか。彰古館に残された断片的な情報を辿ると次の様に推測出来ます。
 昭和18年(1943)、戦時下の兵器増産計画に基づき、金属回収の閣議決定がなされます。これによってお祭りの御輿やお寺の釣鐘、果ては小銭に至るまでの金属が回収され、航空機や戦車に姿を変えたのです。
 翌19年1月24日、これに呼応して軍医学校も銅物資の供出をすることになります。陸軍衛生の始祖松本順と石黒忠眞の銅像は、石膏の複製を取り、鋳潰されることとなりました。この際に陸軍軍医学校五十周年記念塔の鳳凰と群像も供出されたのです。レリーフに関しては記念塔からはずされ、木製の額縁をつけた上で残された様です。その一部は、どこかに分与されたか、その後の保管中に失われたものと考えられます。
 昭和20年(1945)3月以降の空襲の激化に伴い、参考館の収蔵品は山形に逃れ、分散秘匿されました。新宿の軍医学校の敷地には1坪当り3〜4本の焼夷弾が刺さる惨状で、跡形もなく破壊された記念塔から、鉛筒が発掘されたのでしよう。
 陸軍軍医学校は11月26日の陸軍省令第56号をもってその59年の歴史に幕を閉じました。衛生医療の最高機関を目指し、未来永劫を祈念した五十周年記念塔は消滅しましたが、彼らが確かに存在した証拠として、その断片が彰古館に伝えられています。
 これらを保管する陸上自衛隊衛生学校も、昨年お陰様で創立50周年を迎えました。軍医たちの使命は「いかなる困難な状況下でも、最善を尽くして人命を助ける」ことです。その意義は、さらに高度な現在の自衛隊の衛生医療に於いても不変です。千載に伝えられたのは五十周年記念塔では無く、衛生医療従事者の崇高な使命感だったのです。

『得てに帆を揚げよ』(下)
娘は元自衛官
第9特科連隊 3陸佐  穗高 均
 官舎の電話が鳴った。「お父さん、奈緒美はもう限界…立ち直ろうと一生懸命頑張ったけど、もうダメ…退職することを許して頂戴、お願い、お願いします」。
 とぎれとぎれに懇願する娘の声「限界だって言うけど、昨日今日入隊したばかりで何がわかるんだ。これからいろんなことを経験して初めて自衛隊の良さが判るのに…もう少しガンバッてみないか」1ヵ月前と変わりない返事をする。「お父さんは、何時も頑張れというけど、私もそのつもりで頑張ってきたけど…本当にもう限界…短かったけど自衛隊に入って勉強できたこともたくさんあって、奈緒美は後悔はないの…だから…」「ワカッタ、奈緒美が一生懸命に頑張ったことをお父さんも認めるよ。辞めていいよ。…辞めたらゆっくり休んでまた頑張ろうな…」精一杯の対応だった。不覚にも涙が頬を濡らした。「お父さん、ありがとう。…奈緒美は…奈緒美は、今度は絶対頑張るから…ゴメンネお父さん。…」受話器の向こうで娘も泣いていた。
 「お父さんは同意したけど、部隊では順序を経て手続きする必要があるので、班長とか、付准尉にきちんと申し出て、指導を受けるように、お父さんからも中隊長にはお願いしておくから…正式に退職できる日までは、これまでと同じようにしっかり勤務しなさい」。娘は「ハイ…」と答え、しばし沈黙の後受話器をおいた。
 娘は、中隊長・連隊長のご配慮をいただき、10月20日付で依願退職した。元自衛官の誕生である。退職後、何か当面の目標を与える必要があると思い、翌日から自動車教習所に通わせることにし、この間に、じ後のことについてじっくり検討することにした。
 私の机の中に、平成8年1月1日付の辞令書(写し)がある。「N病院臨時介護土として採用する。看護課勤務を命ずる。給料月額○○を給する」と書いてある。生涯の目標としていた介護土の仕事を、自動車教習所に通いながら娘が自ら開拓したのである。半年前、婦教での修了式で見たあの生き生きとした娘の姿が戻ってきた。
 週末に帰省したときには仕事の内容を話してくれた。「食事や入浴の世話、そして寝たきり老人の下の世話をしたり、話し相手になったり、大変だけどでも楽しいし毎日が充実している」と、そして、こんな事も言っていた。「将来、お父さんとお母さんが倒れて寝たきり老人になっても、何時でもオムツを換えてあげるから心配しなくていいよ」と、何より、好きな仕事を懸命にやっている娘がいじらしく思えた。
 日本人の平均寿命が延びて、2010年頃には、60歳以上の人口が国民の30%を占めるという。超高齢化社会がすぐやってくるのだ。ある生命保険会社が実施したアンケートでは「配偶者に先立たれたら自分一人では生きていく自信がない」と答えたお父さん方は全体の43%になるという。
 我が身に置き換えて見た場合、例えば、妻が85歳で寝たきりになったと仮定した場合、同年齢の私も当然85歳になっている。果たして、85歳の老人が85歳の寝たきり老人を介護できるのだろうか。(?)極めて、疑問である。
 福祉とか介護とかが見直されているのも当然といえば当然である。せっかく切り開いた自衛官としての道に、自ら終止符を打って多くの方々に迷惑を掛けた娘だったが、こういう未来予測にマッチした介護士の仕事を求め、充実感を持ってガンバッている娘が今は誇らしくさえ思う。
 何時までも健康でありたいと願うのは万人の思いであるが、やはり、それぞれに来るべき時は来るのである。その時は、甘んじて娘の世話になりたいと思う。介護士となった娘にいつものように「ガンバレ、得てに帆を揚げよ」と声援し、元自衛官の話を終わりたいと思う。(了)

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