「みーじゅーくーかーばーねー」
熱帯の心地よい柔らかい風のなかで、何となく郷愁を誘われるような歌声が響いて来ました。ここはインドネシア、バリ島。デンパサール郊外の英雄墓地。
コロナ禍の前のことですから、もう4,5年前になるのではないでしょうか。インドネシア人の女性ガイドさんの案内でこの英雄墓地を参拝しました。この墓地はインドネシア独立戦争で命を落とされた英雄達が眠る聖地となっています。
ガイドさんの導きで独立戦争に参加した日本兵数名のお墓にお参りをしました。彼女の説明以外にも、この人は日本人ではないかと思われる日本人風の名前が散見され、改めてインドネシアの独立に命を捧げた日本人の多さに感慨深いものを感じさせられました。
参拝を終えて広場に出たところ、向こうから在郷軍人の上着を着て、胸にネームプレートを付けた一人の老紳士が近づいて来ました。「わたしは、ここの在郷軍人会の会長です。今日はそこの会合所で在郷軍人会の会をやっていました。あなたのことをガイドから聞きました。懐かしくなったので声を掛けました」
そして突然、気をつけの姿勢になり、日本語で「わたしどもは東亜の学徒です。新しいアジアのために尽くします」と大きなはっきりした声で言われたのでした。本当にびっくりしました。会長はそれから「さっきの歌は海ゆかばです」と言われました。なにか懐かしい感じがしたのはそのせいだったのです。「海ゆかば」ほど英雄墓地にふさわしい日本の歌があるでしょうか。会長と一緒に私たちも「海ゆかば」を歌いました。
会長は中学生のとき独立戦争に参加、主に武器弾薬の運搬に従事したそうです。もちろん銃を持って戦闘にも加わったとのこと。中学校では日本語の授業を受け、日本の歌も沢山習ったそうです。会長は、「あるけーあるけーあーるけーあるけー・・・」「おーてーてーつーないでー・・・」「みよとーかいのーそらあけてー・・・」、次から次へと披露してくださいました。
「独立戦争に加勢してくれた日本兵の方々とも日本語で意思疎通出来、作戦遂行に非常に役立った。今はもう日本語は忘れてしまった」会長はもう一度思い出すように、日本語で「わたしは東亜の学徒です」と言われました。
会長は、「ここの戦闘では、日本軍の武器弾薬が提供されたのが決定的な勝因だ」と語られました。
インドネシアの独立戦争に従軍した日本兵は脱走兵の汚名を受けています。そして、武器弾薬の提供は連合軍から強い弾劾を受けたことは歴史的な事実です。
ーーーインドネシア国民は独立を勝ち取りました。
あれから長い時間が経ち、今やインドネシアは東南アジアの大国として繁栄の緒についています。ASEANをリードし、国際的にもその発言力・外交力はとみに増して来ています。その礎の一つとなったのが英雄墓地に眠る日本兵の方々といっても過言ではない、僕はそう思います。
先々月、天皇皇后両陛下がインドネシアを訪問され、ジャカルタの英雄墓地に花輪捧げられました。日本兵の御霊、安かれと祈るばかりです。
インドネシアで忘れてはならないのは今村 均陸軍大将と言えるでしょう。第16軍司令官当時、オランダ領インドネシア・ジャワで行った彼の「軍政」について、ノンフィクション作家の保坂正康さんは次のように記しています。(「WEB歴史街道」 筆者抜粋)
「軍政と言うと、弾圧的なものというイメージが強いが、今村の場合は「現地の人の生活を守る」を前提とした行政である。今村はジャワの人たちの意見を良く聞き、彼らの生活ルールを尊重した。・・・スカルノ、ハッタといった、オランダに抵抗した独立運動の指導者を牢屋から出したり、インドネシア独立の歌を歌うことを許したりもしている。その他の歴史、民族の誇りをおろそかに扱うことは無かった。このような今村の方針に「やり方が生ぬるい」という批判が陸軍内部で出た。・・・今村は、「職を免ぜられない限り、方針は変えない」といって応じなかった。・・・」
また今村 均陸軍大将は、戦後BC級戦犯の判決を受けた際、東京巣鴨の刑務所での服役を拒み、部下が収監されている厳しい環境のパプアニューギニアの小さなマヌス島の収容所に赴き、収監された人物でもあります。まさに武人の鏡と言っていいでしょう。
そのマヌス島で、BC級戦犯として終戦から約6年後の昭和26年6月11日、同じ日に刑死されたお二人の元海軍大尉、宮本逸八さん(48歳)と津穐孝彦さん(39歳)の遺書があります。(復刻「世紀の遺書」巣鴨遺書編纂会編集 昭和59年8月講談社刊 筆者抜粋)
「・・・僕が絞首刑を執行されたから夫は悪人であったかとは毛頭考へて呉れるな。僕は汝が知る人間に他ならない。所謂運命(天命)である。希くば妻子等よ。決して人を恨む事勿れ。神は逸八をして歴史に伝へしめるであらう。僕は決して人を恨まず。天を恨まず。世界の人々に幸多かれと祈を捧げて旅立する。汝(愛する妻よ)は健康に注意し子供を立派に養育してください。・・・」
「・・・国際条約に違反した行動が戦争中あったことを見せられました。しかし多くの人は、その行為が違反したものであったことを知らずに居ました。又、知って居ても異議を申立てることは当時の軍隊の命令に対しては許されませんでした。要するに命令権者の無責任な独善的な、人権と法規を無視した、神がかりの観念が原因をなしたと信じます。・・・」
今年も終戦記念日がやって参りました。合掌。
北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事 |