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スペーサー
自衛隊ニュース   1100号 (2023年6月1日発行)
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「准看護師」入校式
<札病准看護学院>
 4月3日、自衛隊札幌病院准看護学院(学院長・野澤浩1陸佐)は、北部方面総監部から医務官の小林1佐、防衛部訓練課長の椋木1佐、人事部人事課長代理で人事2班長の滝口2佐、防衛部訓練課長代理で教育幹部の堀3佐、北部方面隊最先任上級曹長の高岡准尉が臨席し、多くの志願者の中から選抜され、北は北海道(名寄)から南は沖縄(那覇)の全国から集まった第48期初級陸曹特技課程「准看護師」27名(男性16名、女性11名)の入校式を挙行し、学生代表の鈴木士長は同期を代表して決意を込めた力強い声で申告を実施した。
 入校式にあたり病院長(鈴木智史陸将)は、「本課程で養成される准看護師たる初級陸曹は、第一線から治療・後送の各段階において、傷病者救護・看護を担うという非常に重要な役割が期待されている」と話し、学生に「自己錬磨」「思いやり」の2つを要望し、「修業における自己の目標を設定し、地道に日々研鑽するとともに、それぞれの場面において自分のベストを尽くし、目的意識と自発的な意欲を持ち努力を継続することは諸官に大きな成長をもたらす。与えられた365日24時間を自己錬磨のために有意義に使ってもらいたい。また第一線における過酷な状況や疲労困憊の中で、傷病者を救うことは非常に厳しい任務である。我々の仲間は、負傷したら必ず助けてくれると衛生を信頼して任務に邁進している。そのためには、患者を思いやり、仲間を思いやり、『利他』の心を持って行動できる、使命感を持った衛生科隊員であることが求められる。人の痛み、苦しみや悩みを感性深く受け止め、人を思いやる気持ちが滲み出るような准看護師を目指してもらいたい」と訓示した。
 准看護学院長は、「ビジョン&ハードワーク」を要望し、「長期的目標を達成するのは容易ではなく、そのために多くの短期的目標を達成する必要があることから、平素より明確なビジョンを持ち、日々一生懸命に努力することが大切である。諸官一人一人が将来どのような准看護師たる衛生救護陸曹になりたいか明確なビジョンを持ち、それを達成するために今何をすべきかを考え、地道な努力を積み重ねてもらいたい」と式辞を述べた。
 北部方面総監部医務官(小林1佐)からは、「これからの2年間、多くの仲間とともに切磋琢磨し、そして、この中から准看護師のみにとどまらず、さらにその先の救急救命士、第一線救護衛生員を目指して自衛隊衛生において前線医療の中核を担うスペシャリストを目指してほしい」と祝辞が贈られた。
 学生27名は、訓示等における激励の言葉を心に刻み、決意を新たに准看護師となるべく教育に臨む。

自衛官候補生入隊式
37普連<信太山>
 4月初旬、第37普通科連隊(連隊長・三浦滋1陸佐=信太山)は、自衛官候補生入隊式を、信太山自衛隊協力会等協力諸団体ならびに自衛官候補生の家族が臨席するなか、信太山駐屯地体育館にて執り行った。
 18歳から32歳までの幅広い年代の自衛官候補生が、真新しい制服に袖を通し凛とした姿で入隊式に臨んだ。
 執行者の三浦連隊長は自衛官候補生に対し、前期新隊員教育の3カ月間、区隊長及び班長等の教官と、営内生活を共にする同期を信頼するとともに、信太山駐屯地の一員となったことに誇りを持つことを要望し、「3カ月後の終了式の場において、大きく成長した姿をご家族や我々に見せてほしい」と式辞を述べた。
 式典においては、第1区隊第3班の宮部自候生による指揮のもと、一糸乱れぬ基本教練を行い、着隊から1週間とは思えない姿を家族に披露し驚かせるとともに、代表の第2区隊第5班の谷口自候生に続き自衛官候補生全員が心を一つにして溌溂とした声で宣誓を行い、全力で教育訓練に臨む決意を固めた。
 また、入隊式に先立ち自衛官候補生家族に対する説明会が行われた。説明会では、心身の健全性を重視した教育隊の態勢及び新隊員教育における留意事項について、教育隊長の高尾2佐が説明し、家族が持つ不安を解消するとともに新隊員教育に対する理解を獲得することができた。
 入隊式後、隊員食堂において祝賀会食が行われ、その後の家族との時間においては満開に咲き誇った駐屯地の桜を背景に記念撮影を行い、両親を生活居室に案内するなど、自衛官候補生達は、家族との束の間の一時を過ごしていた。
 自衛官候補生の顔にはまだまだ不安と緊張が見られたが、教育隊は「これから3カ月間同期と苦楽を共にし、一人前の自衛官になるため日々教育訓練に励んでいきたい」としている。

父の背中にあこがれて高工校に入隊
<倶知安>
 倶知安駐屯地北部方面対舟艇対戦車隊(隊長・齋藤誠2陸佐)で、副隊長として勤務する、大沼光1陸尉(53)の長男の大沼裕輝さん(15)は、4月8日、父親とともに武山駐屯地の門をくぐった。
 武山駐屯地では当日、陸上自衛隊高等工科学校第69期生徒の入校式が開かれ、その新入生の中に裕輝さんの姿もあった。
 裕輝さんは山形県村山市で生まれ育ち、幼少期は野球や水泳などのスポーツに勤しむ活発な少年だった。
 いつしか、自衛官として国防に任ずる父の姿を見て、その背中にあこがれを抱くようになり、自衛官としての道を意識し始めたのは、小学6年生の授業で「将来の夢」を考えたときだった。その頃はぼんやりと「自衛官になりたい」と考えていたが、中学に上がってすぐに「高等工科学校に入る」という具体的な目標を立て、その思いを家族に伝えた。
 大沼1尉は「自衛官を目指しているということは、私も家族もそのとき初めて聞いて、正直驚いた。家族全員喜んで賛成した」と振り返る。
 努力を続け見事合格を勝ち取った裕輝さんは、入校式の当日、新型コロナウイルスの影響で約3年ぶりとなった父との再会に、涙を流して喜んだという。
 入校式を終え、晴れて「大沼生徒」となった裕輝さんは、取材に対し「父と一緒にこの日を迎えられてとても嬉しい。不安もいっぱいだが、父のような立派な自衛官になるため頑張りたい」と照れくさそうに語った。

自衛官候補生が各種装備、訓練を研修
<34普連>
 第34普通科連隊(連隊長・水野克輝1陸佐=板妻)の自衛官候補生課程教育隊は4月10日、板妻駐屯地において装備品展示及び訓練研修を行った。
 陸上自衛隊への理解を高めさせることを目的として34普連が普通科の特性等について展示・説明を実施するとともに、同じく駐屯地に所在する第1後方支援連隊第2整備大隊第3普通科直接支援中隊の整備工場を研修し、武器科職種について学ぶ等、候補生は各訓練場を回り、特殊卸下、狙撃、ドローン、偵察用オートバイ、第一線救護、迫撃砲等の各訓練、小火器、人命救助セット等の装備品や通信器材の取扱い要領、また拳法及び銃剣道の訓練の様子を研修した。
 候補生たちは、それぞれの訓練及び装備品の展示・研修において、現場の隊員の説明に真剣な眼差しで聞き入り、積極的にメモをとり質問するなど、陸上自衛隊の理解を深めている様子だった。

読史随感
神田淳
<第126回>

行蔵は我に存す。
 毀誉は他人の主張、我に関せず
ーーー勝海舟

 勝海舟(1827-1899)は幕末の偉人である。日本の近代史上最大の内戦戊辰戦争において、幕府の軍事総裁として官軍参謀西郷隆盛と会見、江戸城無血開城を実現させた。海舟は日本近代化の体制変革(明治維新)を平和裏に進めた人として史上高く評価されている。
 しかし、海舟を批判する人も多かった。一人は福澤諭吉である。福澤は自己の主催する時事新報に「痩せ我慢の説」を公表して海舟を批判した。曰く、戊辰戦争に際し、徳川幕府が戦わず薩長に降伏したことは立国の士風を大いに損なった。勝ち目がなくても戦い抜くのは武士の痩せ我慢であるが、痩せ我慢の士風こそ立国(国の独立)の根本である。その後海舟が新政府の高官になったこともいかがなものか、と。福澤は公表前に海舟に原稿を送り、意見を求めた。これに対し海舟は、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候(やったことは自分の責任。それをけなしたりほめたりすることは他人の主張で、自分には関係ない。どなたにお示しいただいても結構です)」と返信し、何の言い訳もしなかった。
 独立自尊を説き、日本人の精神と文明を高めようとした福澤諭吉は、明治のおそらく最高の啓蒙思想家である。痩せ我慢の説に共感する人も多い。しかし、私はこの件に関しては福澤よりも海舟を評価する。海舟の判断と行動は、現実の難局に直面した幕府の責任者としての重い決断であった。その任になく、やや評論家的な福澤とは異なる。海舟は別のところで、「福澤は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ」と言っている。私は日本のために海舟の判断と行動が正しかったと思う。実際、あのとき幕府が薩長と戦っていたら、内乱が長期化し、近代国家の建設が大きく遅れた可能性がある。
 日本の近現代史のなかで勝海舟の評価は確立している。半藤一利さんのように海舟に心酔する人もいる。私の父は普通の市井の人であったが、歴史に関心があり、生前、幕末明治の歴史人物のなかで勝海舟が一番偉いようだと言っていた。
 江戸城無血開城を達成した両雄の勝海舟は知者、西郷隆盛は仁者と一般に評される。では勝海舟はいかなる知者だったのか。困難を極めた幕末明治の動乱期を誤ることなく生き抜いた勝海舟の知力は、困難に直面する現代日本の未来を開く知の鍵となるかもしれない。
 勝海舟は非常に開明的な知者であり、常に「私理」でない「公理」を追及した。そして公明正大な知と行動を好んだ。
 海舟は徳川幕府に「私理」があるのを見た。日本を統治する政府は「公理」で動くものでなければならない。海舟の知は幕府を超えた日本を見ていた。そして、恭順する幕府を武力で倒そうとする官軍・薩長に、今度は「私理」をみた。この「公理」意識が西郷との会談に望む海舟の気迫となった。
 ペリーが来航し、日本は和親条約を結び、開国する。その後ハリスが来日して貿易のための通商条約締結を迫り、幕府は勅許の得られぬまま条約に調印した。幕府はハリスの恫喝に屈したという非難が国内に起きた。これに対し海舟は、ハリスの主張には天下(世界)の「公理」があり、日本(幕府)は国内の「私理」で対応した。だから負けたのだ、恫喝に屈したのではない、と言った。
 勝海舟の知についてやや深く次回考えてみたい。
(令和5年6月1日)

神田 淳(かんだすなお)
 元高知工科大学客員教授。
 著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。


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