防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2011年10月1日号
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寄せ書き
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ゆうと君とご家族へ
第33普通科連隊(久居)2陸尉 青木英一朗

玉浦小1年 小林ゆうと様
 5月13日、岩沼市民会館前で「自衛隊への入隊案内書」を手渡してから、もう1ヵ月以上が経ちます。その後、元気にしていますか。友達はたくさんできましたか。
 3月13日、岩沼市に出動し、活動し始めてから2ヵ月経った頃、ゆうと君は、新聞に「おおきくなったらじえいたいになります」と我々にメッセージをくれました。このメッセージを見て我々自衛隊の隊員みんなが勇気づけられ、被災して困っている人のため、岩沼の皆さんのために頑張ろうと団結できました。本当にありがとう。
 ゆうと君が早く大きくなって自衛隊に入隊し、一緒に日本のために仕事ができる日を隊員一同待っています。心、体ともに健やかに成長してくれることを祈っています。

ご家族の皆様
 前略
 5月8日の産経新聞のコラム「被災地からのメッセージ」におけるご子息のメッセージは、我々隊員にとって何より励みになる言葉でありました。被災された皆様方が、「一日も早く元気を取り戻せるよう微力ながら力添えを」と隊員一同活動しておりましたが、ご子息様のメッセージは逆に我々に力を与えて下さいました。野営地となった船岡駐屯地に貼り出された新聞の切り抜きを隊員一同食い入るように見て勇気をもらい、毎日の任務に立ち向かう事ができました。隊員を代表し深く御礼申し上げます。
 岩沼市全体が復興を成し遂げる最後の日までお手伝いできず心苦しい限りではありますが、岩沼市が一日も早く復興を成し遂げ、震災が与えた皆様の傷が一日も早く癒されますよう、遠く三重県の地よりお祈りしております。    
草々
 乱筆乱文お許し下さい。

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節目のチャレンジ
第6司団司令部付隊(神町)2陸曹 日下裕之

 40歳の節目に何かチャレンジしたくなり、夏季休暇中に、自宅の多賀城から実家の石巻まで約65?を趣味のジョギングで帰省しました。経路は多賀城〜塩釜〜松島〜野蒜〜矢本〜門脇〜石巻。大震災で被災した土地です。私の母校、同級生や親戚の家が津波被害を受けました。込み上げる悔しさや怒りをぶつけたかったのがジョギングを決意した最大の理由です。復旧・復興活動が続く現場は道が走りにくいなどと感じましたが「被災地で妥協できるか!」と喝を入れ墓参りを含め約6時間で走りました。今回のチャレンジを人生の糧にジョギングを続けていきます。最後に、亡くなられた方々のご冥福と被災地の早期の復旧・復興を心からお祈りいたします。

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悲願の日本一達成
第32普通科連隊(大宮)3陸曹 鈴木康彦

 私の目標は「全日本青年銃剣道大会優勝」でした。
 今まで青年大会では結果を出せずに悔しい思いをしてきました。気付けば、青年として出場できる最後の年齢になっており、今年こそ優勝を目標に仲間全員で一致団結し、訓練に取り組みました。特に、夏の訓練は過酷で、暑さで何度も心が折れそうになりましたが、目標に向かい仲間と励まし合い頑張ることができました。また、3月11日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加、6、7月には野営訓練や訓練検閲も重なり、短い練成期間を補おうと、仲間と課業外にも練成を実施して不安を払拭し本番に臨みました。
 そして大会当日、自分にとっては最後の大会という緊張の中、試合に臨むことになりました。大会前、助教の須田2曹から送られた「不安は全くない、いつも通りやってこい」との激励の言葉を胸に試合に臨んだせいか、緊張感が無くなり、試合を重ね勝ち進んでいくにつれ自信が増し、チームが一丸となっていくのを感じました。順調に決勝戦まで勝ち進み、決勝戦では大将戦まで決着がつかず、接戦の末、勝利し念願の優勝を果たすことができました。
 今回優勝できたのは、一緒に頑張ってきた銃剣道訓練隊の仲間をはじめ、教官、助教、先輩、同期、後輩、更には、訓練の環境をサポートして下さった中隊の方々のおかげと、心より感謝しています。この経験を活かし、これからも目標を持って訓練し連覇すべく後輩隊員の育成に努めていきたいと思っています。

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家族と災害派遣
三成真由(第13偵察隊=出雲、三成慶秀2陸曹長女

 3月11日、日本を襲った巨大地震と津波、地震が起こったことも知らずにテレビをつけた私はしばらくテレビから眼を離すことができませんでした。炎は燃え続けて、波に飲み込まれていく家も、私は信じられませんでした。テレビの中の黒くて止まることのない波に私は恐怖を感じました。そして、原発の放射能が外に漏れ出していること、放射能と聞いて私は最初に原爆を考えました。目に見えないし、匂いもないし、そんなものが今、日本に散布している状況を考えたら、とても怖かったです。
 私の父は福島県のいわき市に災害派遣に行きました。福島県というと、津波の被害も大きいし放射能のこともあって父が災害派遣に行っている間、母も妹もみんな元気はありませんでした。父から写真がメールで送られてきても母は父の顔を見て、「ほっ」とするどころか逆にますます不安になっていました。
 父がいなくて暗かった私の家も、父が戻ってくるという知らせで、みんなの雰囲気も変わった気がしました。
 父が帰ってくる日、ソワソワしていた私の家族は駐車場に父の車が見えたら、みんなで父の出迎えに行きました。この時、父の影響力はすごいと思いました。

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福島県ボランティア所見
第37普通科連隊(信太山)3陸曹 宮里康和

 被災地では避難所から仮設住宅に移る時期が自ら命を絶つ方や鬱になる方が急増するそうです。避難所では、とにかくみんなで協力して生きようという気持ちが強く働き未来の事についてはあまり考えないのですが、仮設住宅に移ると家族だけの生活に戻るため将来に対する不安や家族を失った悲しみが出るのでこの時期からカウンセリングがとても重要になってきます。カウンセリングを勉強して3ヵ月になりますが災害派遣に参加していない自分にとって被災者の方々に役立つのは今しかないと思いボランティアに参加しました。
 6月16日は福島県相馬市の避難所を訪問。津波被害に遭われた方、原発の危険区域から避難してきた方が生活していました。特に印象に残ったのは、精神的ショックで言葉を失い顔の表情も失ってしまった方がカウンセリングをするうちに返事が出来るようになった事です。全員の方が自衛隊に対し感謝してもしきれないと言って下さりました。
 翌17日は福島県田村市の避難所を訪問しましたが、原発から避難してきた方ばかりでした。いつ自分達の家に戻ることができるのか分からない状況で、この先どうしたらいいか分からず、時間だけが過ぎていく日々を送っている方が多くいました。その方達に対しては「このままだと心も体も弱っていく一方です。今はこの状況をプラスに考えて気力・体力を充実させ次の行動に備える時期にしましょう」と言いました。「では何をすればいいのですか?」と聞かれ「朝の散歩です」と答えました。避難所に来てから慢性的な運動不足で腰や膝が痛いという方が大多数を占めていたからです。この呼びかけに対し、「兄ちゃんの言うとおり。このままだったら何も変わらんな。生きる勇気が湧いて来たよ。ありがとう!」と喜んでいただきました。
 まだまだ被災地では、大変な状況が続いています。話し相手になるだけでも、子どもたちと遊んであげるだけでも十分役立ちますし、自殺や鬱の防止にもなります。次は8月に行く予定ですが、後輩も誘い、少しでも貢献できればと思います。

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三つの家族
第305基地通信中隊八戸派遣隊 2陸曹 小山貴史

 私には三つの家族があります。一つ目は血縁関係の家族。第2の家族は以前いた部隊。第3の家族は今回の異動で転入した部隊です。第3の家族も隊長をお父さん、先任陸曹をお母さん、上司をお兄さんお姉さん、後輩を弟、妹として、昔ながらの自衛隊の良き伝統を継承する明るく暖かい部隊です。自衛官に転属は付きものです。あと何度あるか分かりませんがこうして自分の大切な仲間が増えていき、以前の家族の皆は元気にやっているかなぁと時々思い出しては寂しくなってみたりを繰り返して成長していくんだろうなぁと思います。新しい環境に慣れ、仕事を覚え、早く家族の一員として皆を手助けできるようになりたいと思います。

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未経験への挑戦
福島地方協力本部 2海曹 仲沼雄大

 5月30日付で郡山地域事務所へ配属されました。前所属は、海上自衛隊厚木航空基地において、固定翼哨戒機P—3Cの機上武器員でした。出身地であり被災地の福島県で募集の仕事ができることに、喜びを感じています。今現在、福島県は復興へ向かって突き進んでおり、募集を通じその手助けや、自衛官として希望を与えられるのではないかと考えているからです。しかし、今まで経験したことの無い募集という仕事は、実際に行うと非常に忙しく、大変なものであると痛感しています。
 私は募集を行うにあたって先輩方の意見・指導を良く聞くようにしています。人を相手にする仕事のため正解というものは無く、あらゆる状況が考えられます。悩んだ時、先輩の方々は今までの経験を元に大変分かりやすく指導してくれます。
 まだ始まったばかりですが思い立ったらすぐ行動、少しずつでも結果を残せるように頑張って、周囲からの信頼を勝ち取れるよう、日々精進していきます。


「頑張っています」新しい職場
活躍するOB シリーズ
学校法人九里学園 熊谷康尚
熊谷氏は平成20年5月、埼玉地方協力本部を3陸尉で定年退職。56歳

 平成20年5月に陸上自衛隊を定年退職、学校法人九里(くのり)学園浦和大学・浦和大学短期大学部に再就職して2年が過ぎました。
 大学は、主に社会福祉士・幼稚園教諭・保育士・介護福祉士のスペシャリストを養成する「地域の福祉に貢献する大学」として総合福祉学部・こども学部・介護福祉科で構成されています。
 大学では、事務局専任職員として総務課に所属、主たる職務は、施設・備品管理です。その他の業務としては駐車場管理、グランド管理、樹木除草の環境管理、スクールバスの運行管理、警備員・学内清掃員及びスクールバス運転手の管理・監督、文書発簡接受事務、入試アドバイザーとして学生募集のための高校訪問等々多種多様かつ複雑多岐な業務を担当しています。
 自衛隊でいうところの総務課業務をはじめ管理科、補給科、文書班、警備班、輸送班等の業務といったところです。そのほとんどが現職時に経験したこと、見てきたことなので想像はつきましたが、スクールバスの運行管理については経験したこともなく未知の世界でした。6台のスクールバスを時刻表どおりに運行させることが私の任務ですが、うっかりミスも何回かありました。オープンキャンパス時刻表、夏休み時刻表、その他学校行事等でその都度作成する時刻表、臨時便の運行、バス会社からの借り受け等々の複雑な業務があり、学校全体の動きを理解していないと出来ない仕事で、いまだに悪戦苦闘をしております。
 自衛隊定年後は、団体職員若しくは学校職員を希望しておりましたが、不況で援護環境も厳しいことから、あまり高望みはしないと思っていた矢先、援護担当者から学校の求人があると情報を得ました。求人票を見るやいなやその場で、即答で決めました。今思えば、即答で決心したことが私にとって良い方向に向かったものと思われます。
 就職に際しては、「挨拶」「率先躬行」「健康」の三つだけは実践していこうと思っておりました。教員・学生・同僚との挨拶、上司に命ぜられたことは最優先、施設・備品に何かあれば現場に急行等々学内を縦横無尽に往来、1日1万歩をクリア、まさに三つを実践している毎日です。
 また、元自衛官を表に出している関係か、今年、ある学部長から依頼され、2時間の授業を受け持ちました。射撃の話、匍匐前進の話等を前言に、シャベルとスコップの違い、エンピの使い方、穴の掘り方等の説明を交えて樹木(ブルーベリー)の定植を行いました。
 新隊員教育の区隊長を思い出しながらの楽しい授業でした。このような経験を経て、私も着実に浦和大学の人になりつつあります。
 基本的に「定年後はのんびりと」との考えはなかったのですが、これらの膨大な職務を一人でこなすには多少きついと思う時もあるのは事実です。
 しかしながら、これも自分に科せられた使命と奮起しております。仕事には、十分満足しておりますので、2回目の定年となる65歳まで誠心誠意をモットーに頑張りたいと思います。
 最後になりましたが、この職場に導いてくれた援護担当官及び私を受け入れてくれた九里学園に感謝を申し上げるとともに良き上司・同僚に恵まれて、自分で考え、自分で行動し、責任ある仕事に就けたことに感謝しております。
 通勤片道1時間30分にめげず、毎朝通る駐屯地隊員の皆様を見るたびに力が湧き、自衛隊にいたことが励みになっております。


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