防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
スペーサー
自衛隊ニュース   2011年7月1日号
-
1面 2面 3面 4面 8面 12面

原子力災害派遣に参加して
10
中央即応連隊 2陸曹 木立 博

 地震・雷・火事・オヤジと日本で代表される怖いものという認識はあると思うが、今回の災害で、新たに加えておきたいフレーズがあります。それは、地震・雷・火事・津波です。あの3月11日の出来事は、日本を震撼させました。家や車、人までも飲み込んだあの大津波は、多くの命を一瞬で奪い去りました。私は自衛官であるとともに東北人でもあり、とても他人事とは思えませんでした。初めは待機任務につくことになり、被災者の悲痛な叫びを各メディアで見ることしかできず、今すぐにでも、現地に駆け込み、瓦礫の暗闇の中で助けを待っている人達を救出しに行きたい衝動に駆られました。
 現在は、行方不明者の捜索に参加しておりますが、まさに山口連隊長が掲げている「大和一丸」をモットーに、日本人が本来もっている五心を携えて、どんな形でもいいので被災者の方々の支えになれればと思い勤務しています。メディア等の有名人や色々な方々の活動は、被災者に勇気や希望を与えており本当に素晴らしいことだと思います。人それぞれにできることからコツコツと、復旧に向け歩き出すためのきっかけ作りを被災者の方々へ送り続けています。
 私たち自衛官もそれと同様、直接現場で、復興・復旧等、被災者の方々が今後笑顔を取り戻すための礎になれればと日々の任務に邁進したいと思っています。2ヵ月たった今ですが、これからが本当の正念場ですが、みんなが手と手を取りあい、この日本最大の窮地を乗り越え、流した涙の後には満面の笑みが見える、何があっても折れない心をもった強い東北を応援していきたいと思いました。
 最後に、全自衛隊の皆さん、ともにどんな苦境にも屈せず「大和一丸」この事態を打開し、明るい日本の未来を必ず取り戻しましょう。今こそ日本国自衛隊としての真価を問われる時期、ともに見えない絆で結ばれています。未来の希望に向け一歩ずつ突き進みましょう。 
※五心
「ハイと云う素直な心、すみませんと云う反省の心、私がしますと云う奉仕の心、おかげさまでと云う謙虚な心、ありがとうと云う感謝の心」
※大和一丸
・中央即応連隊の本災害派遣任務の作戦名
・「連隊は、東日本はもとより、今後の日本の浮沈を賭けた作戦と捉え、『大和一丸作戦』と命名した。」(中央即応連隊長)

10
中央即応連隊 陸士長 高野利栄
 私は、今回戦後日本最大の自然災害である東日本大震災に際して自衛官として初の災害派遣任務に参加しました。中隊に付与された任務は行方不明者捜索活動でした。資材の準備を終え、大型車両に乗り捜索現場へ向かった私の胸に多くの思いが去来しました。
 「この未曾有の国難にあたり、自衛官として自分は為すべき事を為さなくてはならない。」「今までやってきた訓練の成果を最大限に発揮すべき時は今をおいて他にはない。」
 すると次第に強い使命感になり、身に付けた装具に不具合がないか何度も点検を行いました。私は初の実任務を前に緊張しました。大型車両で現場に着き、徒歩で前進し、捜索現場を確認しました。私は目の前に広がる凄惨な光景に驚愕しました。津波で流され横たわる瓦礫の山、根元から破壊された電柱、折れ曲がったガードレール、全壊した家屋、数ヵ月前まで人々が生活していた証が土砂にまみれ乱雑に転がっていました。そしてマスクをしていても鼻につく汚水と海水の匂い。「これが今の被災地の現状……」事前の情報により覚悟はしていましたが、実際はそれを上回っていました。我に返り、「この現状をなんとかする為に今この場に自分は立っているのだ。」そう思い直し、強く円ピを握り直しました。
 長期間の災害派遣において、自己と向き合う事は多々あると思います。その度、自衛官としての自分はどうあるべきかを考え、今後も任務遂行に邁進していきたいと思います。
10
中央即応連隊 3陸曹 今井章仁
 「派遣において、行方不明者捜索をする上での苦労は何ですか?」といった内容の質問をよく家族や部外の友人から受けることがある。肉体的疲労、精神的ストレス、生活環境、捜索現場の環境、全てまとめて「苦労」で括れば簡単だが、あえて強がらせてもらえば「『苦労』などない。」と私は答える。
 なぜなら、それらは自衛官として、災害派遣という任務の上では当然のことであり、いまさら「苦労」などと数えてはいられない、数えるまでもないことだからである。誇張だといわれようが失笑されようが、嘘にはならないように踏ん張りたい。
 大自然の猛威、その傷跡の前には小さな力しかない私だが、この一つの瓦礫を運ぶことから、小さくとも一歩進めると思いたい。行方不明者を発見できた。ならばきっと誰かを救えた、その人に連なる人々の想いを救えたと信じたい。
 だからこそ、派遣に掛かる全ての困難に強がりの一瞥をくれて、前を向いて進んでいこうと思う。「苦労なんてあるはずない」と。
10
中央特殊武器防護隊 3陸佐 竹谷年秋
 平成23年3月13日1700頃、中央特殊武器防護隊主力は原子力災害現地対策本部(オフサイトセンター)に近い大熊町役場に到着した。住民は既に避難しており、駐車場には窓が開いたままの車両等が多数放置されており避難時の慌しさを感じた。到着後、中隊に東北方面衛生隊、第6後方支援連隊補給隊、第6特殊武器防護隊及び化学教導隊の12名と水タンク車5両が配属となり、直ちに総員34名、水タンク車10両の増強本部中隊(給水支援隊)の編成を完結した。
 その後、役場に隣接する公民館に中隊本部を開設し活動準備を実施していた1900頃、隊長から「現在第2原発は放射能漏れはないものの、給水タンクの水が少なくなっていることから、速やかに第2原発への給水を実施せよ。」との命令を受けた。自分としては第1原発への対処が切迫していると判断していたが「第2原発も危ないのか、ならば直ぐ行くぞ」と更に気を引き締め中隊命令を下達し、2000頃大熊町役場を出発して第2原発へ向かった。停電で真暗な町を通り抜け第2原発が近づくと施設の明かりが見え、「第2の発電設備は生きているぞ」と思い少し安心した。
 原発到着後、まず給水タンクの位置を確認し、じ後近くを流れる木戸川に水タンク車への給水源を開設して、翌朝の0600までの間、夜を徹して約300トンの給水作戦を実施した。
 この第2原発に対する給水は、本災害派遣における最初の任務となったが、隊員は大宮駐屯地からの移動に引き続き、夜間身を切るような寒風が吹き荒ぶ中、黙々と任務を遂行し、原発の安定化に寄与した。その後、中隊は第1原発対処部隊である放水冷却隊への給水支援を実施するとともに、現在は行方不明者の捜索支援等を実施している。中隊長として原発の早期安定化及び第2の故郷とも思える福島県の早期復興を祈りつつ、最後まで任務完遂に全力を尽くす所存である。
10
中央特殊武器防護隊 3陸曹 中村智一
 3月12日2300に大宮駐屯地を出発し、民間車両が1台も走行していない東北道を使用して、隊主力は福島県へ前進した。
 翌日の1700頃、双葉郡大熊町にある大熊町役場に到着。隣接する大熊町公民館で、全隊員が宿営準備をはじめ様々な活動を実施しているなか、1930に本部中隊長より「福島第2原発への給水任務」の命が下された。
 私はその任務を聞いて意外に思った。なぜならば、我々の部隊に付与される任務は、除染活動、被災地や除染車への給水活動だと思っていたからだ。
 私は初めての任務であり、どのような内容の任務になるのか少し不安を感じながらも準備を進め、現地へと前進した。
 到着後、まず第2原発の正門において白い防護服を着用して、東京電力職員の誘導で原発内の給水地点と給水要領を確認した。その後、給水源に前進して給水車に水を汲み上げ、再び給水地点に移動し、冷却水タンクに給水するといった要領で、給水源と給水地点との往復作業を繰り返し実施した。
 付近の町は避難勧告により無人であり、停電状態でもあったので、移動間は深い暗闇と静けさに包まれ、私が運転する車両の音のみが周囲に響き渡っていた。
 任務は深夜まで及んだが、手はかじかみ、身体は硬直し、時間が進むにつれて寒さとの戦いがより厳しいものとなった。放射線による自身の被ばくの可能性も考えたが、それでも全力で任務に集中し、任務の完遂だけを考えて黙々と作業に没頭した。
 任務が無事終了し、公民館へ前進を始めた時はすでに午前6時近かった。皆、長時間の任務により疲労の色が濃い中、静かに第2原発をあとにした。
 この任務を完遂したことで、第2原発の使用済み核燃料や原子炉の安定化に貢献できたことは、今でもとても誇りに思っている。任務には様々なものがあり、私が今まで行ってきた訓練だけでなく、固定概念に捉われないさらなる広い視野が必要だと考え、この経験を自分自身の糧とし、今後の様々な任務にまい進していきたいと思った。
10
第1ヘリコプター団 1陸尉 京野克宏
 「カボウシャ、こちらキサラヅ、只今から進入開始します。」「了解、よろしく頼む。」3月20日0820我々、放水冷却隊は、福島第1原子力発電所4号機に対して放水を開始しました。
 私は、第2派目の交代要員として、3月20日に中央特殊武器防護隊に配属されました。CRF現地調整所である広野町Jヴィレッジに同日0530到着し、進入経路、待機位置、放水位置及び離脱要領等を確認後、タイベックの上から約20kgの偵察用防護衣を装着し、2名一組で乗車、じ後、亀裂・陥没等の震災の爪痕が生々しい悪路を慎重に探るように原発に向けて前進しました。
 車内は密閉され凛とした静寂の中、五感が研ぎ澄まされていく感覚でした。これから放射線という目に見えない敵に挑む不安は多少ありましたが、何故か恐怖感は微塵もありませんでした。自衛隊初の任務であり、また私の故郷でもあるこの地を何とかしたいとの思いもあり、「可能な限り、最善を尽くそう。」と覚悟を決めていたため、意外と冷静で穏やかな心境だったことを覚えています。
 現場到着後、放水位置に前進し建屋を目の当たりにして愕然としました。「こんなに酷いのか・・。」気を取り直してピンポイントでの放水に集中しました。その時「届け!届け!」と心の中で叫んでいる自分がいました。「放水終了、これより離脱する。」「了解、ご苦労様でした。」その後、放水終了の安堵感と期待した効果を確認する術がないもどかしさが入り混じった複雑な心境でJヴィレッジへの帰路につき、午後には2回目の任務に向かいました。
 本任務を振り返り、陸海空放水隊を直接指揮して頂いた放水冷却隊長をはじめ放水冷却隊の仲間達、木更津の地でサポートをして頂いた上司、同僚のお蔭で無事任務を完遂できたものと深く感謝しています。
 今なお災害派遣は継続しており、原子力災害は未だ出口の見えない状況にあります。しかし、「守りたい人達がいる。守らなければならない国がある。」だからこそ我々が存在しており、そのためには今後も努力を惜しんではならないと肝に銘じています。
 最後に、この震災で大きな被害を受けた被災地が、一日も早く復興・再生されることを心から願っています。
10
第1ヘリコプター団 2陸曹 若林宏友
 3月17日の午前零時過ぎに私の原発対処は始まりました。あわただしく準備をして救難消防車に乗り込み、当初の前進目標である常磐自動車道の「四倉PA」を目指しました。隊員が水素爆発に巻き込まれて医療施設に搬送されたという報道もあり、「自分もそうなるのか?」という気持ちが一瞬頭をよぎりました。しかし、四倉PAに陸海空の消防車が集結し、皆で黙々と渡された防護衣を装着して準備を整えるうちに「俺たちがやるしかないんだ。」という気持ちになっていきました。
 Jヴィレッジにおいて放水冷却任務に関する細部の説明があり、また、ヘリ団のCH—47が空中から放水したことを知りました。これに続くつもりで中央特殊武器防護隊の先導のもとに、震災の爪痕が残る道路を慎重に福島第1原発に向けて前進しました。打ち合わせの通りに原発敷地内に進入して3号機に向かうと、瓦礫が散乱していて災害の凄まじさを見せつけられました。3号機への放水は夜間となったため、東京電力の職員が投光器を用意して放水目標への誘導を続けてくれました。そのお陰で的確に示された場所に放水することが出来ました。
 その後、Jヴィレッジに戻り、車両と身体の除染をして待機場所であった郡山駐屯地に戻ると、安堵感に包まれたのか、体中の力が抜けるのを感じました。
 今回「危険を顧みず国民の負託に応える」場面は何の前触れもなくやってきました。それだけに日頃の物心両面の準備の重要性を再認識しました。私達が任務を無事に達成出来たのは、配属された中央特殊武器防護隊からの的確な命令、関係部隊との連携及び東京電力・関連会社の方々の支援があっての事です。これら全ての皆様に深く御礼を申しあげるとともに、いまだ続く原発への対処が一日も早く安定することを願います。
10
通信教導隊 1陸曹 服部新一
 「怪我だけは気をつけてね。」「大丈夫。いつも通りだよ。」災害派遣出発時に妻とこんなやりとりをしてから、既に何日ここにいるだろうか。
 ここは、人知れず黙々と任務を遂行している無線中継所。私たちは、直接無線が通じない場所どうしの通話を確保するため、昼夜を問わず無線中継勤務に当たっている。そして、その場所は電波が遠くまで届く高台に位置している。
 まだ雪の降る3月の東北地方、高台で視界良好なため、景色は良いが吹きさらしの風が当たり体感温度が氷点下になることもある。6人用天幕と中継用のアンテナが、風で飛ばされないかとの不安のなか、CRF隷下の中央特殊武器防護隊及び配属を受けた化学防護隊・特殊武器防護隊と統制通信所との間の無線中継を行うため、3名1組となり、1ヶ月交替(現在は約3週間)で勤務している。
 生活環境も恵まれたものではなく、場所により多少異なるが、約10日間に1回の割合で郡山駐屯地に糧食(レトルト食品:ボンカレーをイメージして下さい。)を受領に行き、そのときだけ入浴をしている。食事は毎回受領したレトルト食品を、ストーブでお湯を沸かして温めてから食べている。時には、置いておいた食料をネズミにかじられる事もあった。宿泊は6人用宿営天幕を利用した無線中継所の中で、野外用ベッドとスリーピングバッグ(寝袋)を使用している。そのような中でも、無線中継所から見上げる福島の夜空は時を忘れるくらいにとてもきれいだ。そして、私たちのモチベーションを支えてくれるのは、中継所への行き帰りに手を振ったり、敬礼をしてくれる小・中学生の姿だった。
 周囲には他に誰もおらず、その行動が被災者の目に触れることはない。しかし、隊員たちに不満はない。亡くなられた方々や被災された方々のことを考えると不満など言えないのだ。行方不明者捜索や物資の輸送等の直接的な支援活動はできないが、通信科隊員にしかできない任務を完遂し、直接的な支援活動を行っている隊員の活動が少しでも円滑になることを願い必通の信念を持って今日も任務に当たっている。

NEXT →
(ヘルプ)
Copyright (C) 2001-2014 Boueihome Shinbun Inc