防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2011年8月15日号
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寄せ書き
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班付を経験して
第32普通科連隊(大宮)陸士長 山崎弘樹
 私は第1期自衛官候補生課程の班付を命じられたとき、その任務の責任の重さを感じるとともに、私に務まるのか不安で一杯でした。
 候補生の着隊前日、区隊付から言われた言葉が2つあります。一つは、「教え子の中にも嫌いな者、合わない者が出てくる。しかし彼らの親御さんたちは全てを俺たちに任せている。親御さんたちの気持ちを考えたら全ての候補生を等しく面倒をみてあげなくてはいけない」。2つ目は「教育修了時彼らが涙を流して『離れたくない』と言ったら教育の成果ありじゃないかな」
 いざ候補生が着隊し、一緒に生活してみると思っていた以上に大変でした。しかし、区隊付の言葉を思い出し、各隊員が等しくできるようになるまで何度も繰り返し教えました。後期の部隊配置が決まり、いよいよ別れの時、教え子達は涙を流しながら別れを惜しんでいました。その光景を見て目頭が熱くなり、「これが教育なんだ」と思い、深い充実感を感じました。
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教えることの難しさ
第8施設大隊(川内) 3陸曹 黒木大介
 私は陸士の頃から希望してきたらっぱ教育の助教になることができました。
 私のこの教育の目標は、「自分より上手く吹けるようにさせる」でした。そのために、自分の持っている技術から、テクニック、練習法など全てを教え、自ら努力してきました。しかし、教えているつもりでも学生には伝わっていなかったり、教えていなくても教官、助教の音を聴いただけで真似して自分のモノにしたりと色々な個性があり、一人一人に違う教え方を心がけました。
 教えることの難しさは何年たっても変わらず、考えさせられることばかりです。これからも、どうすれば被教育者にわかりやすく教えられるかを考えていきたいです。
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連隊小銃射撃競技会
第24普通科連隊(えびの)2陸曹 山田平和
 7月16日、国分射場において平成23年度連隊小銃射撃競技会が実施され、我が第2中隊は、昨年に続き中隊対抗の部において2連覇を達成することができました。本競技会は、「中隊対抗の部」及び「個人の部」に区分し、実施されました。
 私の所属する第2中隊の隊員は、腕利きの隊員が多く、誰が選手になってもおかしくない状況であります。そのため、教官の本二日市1曹は、年度当初から連覇に向け気象、特に光線、風、健康状態も含め徹底した射撃結果等のデータ管理を行うとともに、選手選考結果が、中隊の団結・士気に悪い影響を与えないように分析を行っていました。大会2日前、最後の射撃終了後、射場において、中隊長から選手発表がありました。射撃という特性上、各隊員がストイックな戦いを行っていただけに、悲喜こもごもの様相でした。
 選手層の厚い中で、選手を勝ち取るという厳しい状況でしたが、困難に打ち勝つ精神が2中隊の伝統でもあり、私は、この良き伝統を引き継いで行きたいと感じました。今回の大会では、永野即応予備2曹が、即応予備自衛官で個人の部において優勝しましたが、射撃要領の違いがありますが常備自衛官を含めても連隊トップの成績で、連隊長から特別賞が授与されました。また、2中隊の即応予備自衛官は、2年連続1位となり、大会後の祝勝会では、常備・即応ともに大いに盛り上がりました。
 これからも常備自衛官と即応予備自衛官が一丸となり、「常即一心」を合言葉に3連覇に向け中隊の良き伝統を継承していきたいと思います。そして、来年こそは、私も中隊長指定選手を勝ち取りたいと思います。
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質問に答えてる?
第6師団司令部(神町)1陸尉 星川直人
 貴官は上官の質問に適切に答えているでしょうか?先日、上司である4部長にある質問を受けた。「輸送班長、B道沿いの輸送支援は可能か?」私は「いくつかの処置を講じて、それを調整できれば何とか対処できるかもしれません」としか答えられなかった。4部長は眉をひそめて「出来るのか出来ないのか質問に答えよ」。この場合の模範解答は「可能です」の一言だったと思うが、苦しい輸送支援であり実行するためにはかなりの力技の調整が必要でそれをクリアする自信もなかった。戦況をもっと分析してあらゆる状況に対応できるように処置できていなかった事を猛省するのであった。
 自衛隊の行動はすべて命令で律され、命令には決まった順番がある。それは指揮官が隷下部隊長に対し、まず同じ考えで頭の中を統一するために企図を命ずることから始まる。上官に対する回答も同じで「出来ます」「出来ません」の返答が必要であり上官がその回答に同意なら何もいわずに同意するでしょうし、疑問をもったら「本当にできるのか?」「なぜ?」などの質問が来て、その際に初めて処置対策を明瞭に説明できれば上官の質問に答えている事になるのである。今後も適切な質問に答えられるように精進していきたい。
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大台を目前にして
第312基地通信中隊(海田市) 1陸曹 木香真理子
 新隊員第31期婦人自衛官として入隊して30年になることを、いま原稿文を書きながら改めて認識し、よくぞこんなに長い間自衛官として勤務してきたな……と自分の事ながらしみじみと感じています。
 思い起こせば、どうしても仕事が休めなくて風疹にかかった我が子を友人に預かってもらったら子どもではなく友人に風疹が感染してしまった事。司会業務で機転が利かず来賓の前で上司から怒鳴られた事など、数え切れないほどありました。良い事も失敗した事もすべてひっくるめて現在の私があると思い、縁あって一緒に勤務した皆さんに感謝しています。ある部外の方から、「木香さんの本職は広報の仕事?」と聞かれ返答に困った事がありました。確かに、勤務の大半を業務隊、地方協力本部で過ごしました。しかしながら、3年前から実に22年ぶりに職種業務に配置となり、本部にて盛りだくさんの職務と、初めて上番する人事陸曹という役職と、複雑多岐にわたる業務に右往左往しつつ訓練、検閲、行軍、各種検定を、我が子と変わらない年齢の陸士に負けじと頑張っていますが、実は心が「ポキッ」と折れそうになることも。その時は決まって上曹60?行軍を思い出しモチベーションを上げて、勢いで乗り切っています。また、昨年は初めて24時間マラソンにエントリーし個人の部で走りました。最後は膝に力が入らなくなり走ろうにも走れない状態になったため残念ながら2時間残してのゴールになってしまいましたが、感動して、ウルッときたほどでした。瞬発力は衰えても持久力は練習次第と思い新隊員の時に誰もが体験した「時間はあるものではなく作るもの」を思い出し、現在のライフスタイルに合った時間で練習を続けていると同時に、○○の手習いではないですが学生時代に稽古していた居合道と杖道を再開しようかとも考えています。
 「背中で語れる人物になれ」という言葉にあるように社会人である長女、自衛官になった長男、自衛官になるであろう次男に、母として、上級陸曹としての誇り、プロとしての意識を持ち、自分を見つめなおしつつ、溌剌と前進する姿を見せたいと思います。
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「出産」
第7普通科連隊(福知山) 3陸曹 福山剛史
 平成23年6月11日午前3時28分に2782gの元気な女の子が産まれました。子供が産まれ第一に思ったことは、これから生涯にわたりしっかりと育てていかないといけないという責任感で、頑張っていこうと思いました。出産に立会い妻を後押ししましたが、出産するのは女性、何も出来なかったのが本音でやはり女性は強いと感じました。
 出産はスムーズでしたが、出産後、妻の体調が急変。緊急搬送、手術となり10日ほど入院しました。何とか大事には至らずに済みましたが手術前後は「俺の大事な人が居なくなってしまうんじゃないか」と心配や不安で自然に涙が溢れ妻の手を握っていました。今は落ち着いていますが、本当に出産は命懸けだと感じました。これからは妻と娘をしっかりと守っていけるように、そして暖かく幸せな家庭を築いていきたいです。
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ソフトテニスと私
第38普通科連隊(八戸) 1陸曹 杉沢真一
 ソフトテニスを始めて38年目になります。今でも大会に出る時は体調に気をつけてペアと楽しくテニスをしています。ソフトテニスと言ってもわからない人もいるかもしれませんが、以前の名称である軟式テニスと言うと解かると思います。
 軟式テニスの始まりは硬式テニスを真似てボールをゴム製に変えてなるべく安くみんなが楽しめるように作られたスポーツです。
 ソフトテニスは、軟式テニスを世界に広めるため、ルールを解かりやすくし、ダブルスだけだったのをシングルスも取り入れ、オリンピック採用を目指して新たに作られた競技です。
 私は硬式テニスも良いと思いますが、日本で作られたソフトテニスに愛着を感じ、これからも健康に気をつけて生涯のスポーツにしたいと思います。
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元自衛官を雇用して
(株)札幌ユニバースタイル (株)MGL 代表取締役
山口将春 (札幌地本投稿)
 皆さんこんにちは、私は元陸上自衛隊南恵庭駐屯地第3施設団第303ダンプ車両中隊に平成12年から16年まで所属していた自衛隊OBです。
 退職後は、平成16年6月に株式会社ユニバースタイルを創立し、平成22年8月には、株式会社MGLを設立する事が出来ました。
 会社の概要を説明致しますと札幌ユニバースタイルは、自動車販売業・保険業を主とする会社であり、株式会社MGLは食料品の流通・管理を行う会社です。全く異なるジャンルの職業ですが、元自衛官を雇用し日々仕事に勤しんでおります。
 即応予備自衛官として任用されている社員は、年間30日間の訓練招集に参加しておりますが、元同僚や先輩方と再会したり、様々な環境で訓練できることを大変楽しみにしているようです。また、厳しい訓練を経てきた元自衛官の適応能力はもとより、諸先輩方やお客様に対する礼儀・マナーには感動させられることばかりです。
 企業にとって真に有望な人材とは、特殊技術や資格がある人間ではなく、正確さ・俊敏さ・礼儀・マナー……数えあげればきりがありませんが、一言で言うならば「真面目に勝るものは無し」であり、その真面目さはすべての元自衛官が持っている最大の武器となっているようです。今後もその真面目さと、仕事に対する前向きな姿勢を持った隊員の皆様を不定期ではありますが、採用していきたいと考えております。
 最後にすばらしい退職自衛官を御推薦していただいた自衛隊地方協力本部の皆様の益々のご活躍を祈念申し上げます。

「頑張っています」新しい職場
活躍するOB シリーズ
延岡市防災推進員 山中泰仁
再就職、即、多忙な日々
山中氏は平成23年4月、第5航空団司令部を1空佐で定年退職。55歳

 私は、宮崎地方協力本部援護センター及び第5航空団基地援護室の皆様の大変なお骨折りのおかげで、航空自衛隊第5航空団司令部監理部長を最後に、今年4月3日から宮崎県延岡市防災推進員として採用されました。前任者は、今回の延岡市議選で市議になられた元陸上自衛官の上杉泰洋さんです。陸から空へとバトンを引き継いだかたちですが、先輩の残された業績を汚さないように頑張るつもりです。
 防災推進員としての主な業務は、災害対策基本法に基づく自主防災組織の結成促進、防災講話等による防災意識の啓蒙及び地域で実施する防災訓練並びに災害時における対策本部業務です。はじめは戸惑いも多少はありましたが、勤務場所が消防本部ということもあって、すぐに職場にも慣れました。というよりも、業務が当初から多忙を極めていて、慣れざるを得なかったのです。東日本大震災で津波の被害にあった東北の地形が、延岡市にかなり似かよっていることから、津波を想定した避難訓練や防災講話の依頼が連日のように来るようになり、4月から6月末までの防災講話等回数は59回、対象人員の総計は3685名を数えています。3日に2日は訓練や講話を実施していることになります。そして自衛隊での勤務経験及び伊丹駐屯地で研修した防災士講座が、防災推進員としての業務にかなり役立っています。
 まだ再就職したばかりなのですが、なぜか現在の仕事にやりがいを感じている今日この頃です。


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