自衛隊ニュース

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基地周辺を清掃

<目黒基地准曹会>

 目黒基地准曹会は10月5日、課業開始前の時間を利用し、基地周辺の清掃を行った。航空自衛隊目黒基地(司令・柿原国治空将)のすぐ脇を通る目黒川沿いの遊歩道では、統幕、陸海空それぞれの准曹会員が合同で、行き交う街の人々に元気な挨拶をかけながら爽やかに汗を流した。

 参加した隊員は「清掃中、道を通る人に「ありがとう」と声を掛けられ、清々しい気持ちになった」と笑顔で汗を拭った。清掃終了後には会長の松永隆一空曹長が「目黒基地は全国でも少ない、陸海空の隊員が揃う基地。これからも、力を合わせて盛り上げていきましょう」と力強い挨拶で締め括った。

あれから10年 東日本大震災における航空集団の活動

 海上自衛隊航空集団が創設60周年を迎えた今年は、東日本大震災発生から10年の節目の年でもある。航空集団は、3月11日14時46分の発災からわずか11分後には救難ヘリUH-60Jを大湊航空基地から離陸させる等迅速な活動を展開。以降、偵察・捜索救助・救援物資等輸送を実施し、未曽有の災害に対して隊員一丸となって立ち向かった。


◆発災直後の航空集団の動き(平成23年3月11日)

 1446 発 災

 1457 大湊航空基地からUH-60J離陸

 1500 大湊航空基地からSH-60J離陸

 1504 館山航空基地からUH-60J離陸

 1508 監視飛行中の第2航空群所属P-3Cを状況偵察に向かわせる。

 1508 大湊航空基地からSH-60J(2機)離陸

 1519 館山航空基地からSH-60K離陸

 1519 八戸航空基地からP-3C離陸

 1535 厚木航空基地からP-3C離陸

 (以後、常続的に捜索救助、救援物資等輸送、偵察を実施)


◆航空集団の実施事項

(1)航空機による捜索・救助、被害状況偵察

(2)航空機による被災地への物資輸送

(3)八戸航空基地への避難民受け入れ(避難所として体育館の開放、入浴支援等)

支援事項;人 数'

受入者数;5,967人'

入浴支援;1,587人'

診療支援;115人'

メンタルヘルスケア;1,184人

(4)機動施設隊による八戸市復旧支援(瓦礫等運搬)

(5)消防車両による福島第1原発への放水冷却

海上自衛隊航空集団が創設60周年

スローガン「繋ぐ~受け継がれる伝統と魂~」
新たな時代に適合 隊員一丸となって挑戦

 航空集団は、おかげさまで本年創設60周年を迎えることができました。これも、国民の皆様からの深いご理解と多大なご協力の賜物であり、航空集団を代表して厚く御礼申し上げます。

 振り返れば、航空集団は昭和36年9月1日、海上自衛隊の大きな組織改編に伴い、地方隊隷下であった鹿屋・八戸・徳島・館山の各航空隊を、司令部と4個航空群に改編し、自衛艦隊の隷下に新編されました。当時の主力装備は米国から供与された対潜哨戒機S2F-1・P2V-7・HSS-1など作戦機約100機から構成されていました。

 以後、情勢の変化に応じ、逐次装備・人員等の充実に努め、現在では国産の新鋭哨戒機P-1をはじめとする約200機・7個航空群・隊員約1万名を有するまでに成長しました。活動海域も我が国周辺のみならず、ソマリア沖・アデン湾における海賊対処活動等、活躍の場は世界へと拡がっています。

 創設60周年、「還暦」という新たな出発点に立ちます。装備する航空機や勤務する隊員が幾世代にも及んだこの60年を振り返り、我が国の防衛という崇高な任務にまい進した諸先輩に思いを致し、新たな時代に適合できるよう隊員一丸となって構えることに挑戦してまいります。このため、創設60周年スローガンを「繋ぐ ~受け継がれる伝統と魂~」と致しました。

 航空集団は、引き続き精強・即応を維持し、各種任務・訓練に励んでまいります。今後もご理解とご協力をよろしくお願い申し上げます。

海上自衛隊航空集団司令官

海将 二川達也

ノーサイド

北原巖男

"できる限り無理を"


 「エンゼルスの大谷翔平さんは、自分の信ずるところがとにかく変わらない人なんじゃないだろうか」

 こんな出だしでサッカーの三浦知良さんが書いています。

 そして「 "無理はできる間にしかできない。できる限り無理をしながら翔平にしか描けない時代を" といったエールをイチローさんが送ったという。・・・セーフティーにやっているだけではたどり着けない景色があってね。・・無理もいつかはできなくなるのなら、できるうちにやっておくよ。やすきに流れかねない自分にも負けたくない。 "できる限り無理を" は僕にとってもテーマです」(2021年10月8日付け日本経済新聞「サッカー人として」)

 これは、全国の自衛隊員の皆さん、本紙読者の皆さん、僕たち一人ひとりにとってもテーマではないでしょうか。

 僕の身近にこんな方がいます。

 安(や)っさんこと安住孝史(やすずみ たかし)さん。当年とって84歳の鉛筆画家。児童館では小学生の子供達に熱心に絵を教えています。絵を描いたことが無かった東ティモールの子供たちの作品についても、温かく包んで評価し励ましてくださる、そんな方です。また、ガリガリに痩せた体を駆使して、あの越後の国・出雲崎出身の良寛さまの足跡を一人訪ね、訪ね、作品創作の真っ只中にいます。

 鉛筆画は、油絵や水彩画と異なり、とても地味でポピュラーでもありません。しかし、安っさんは、鉛筆画作成を通して、かけがえのないオンリーワンの人生の花を活き活きと咲かせ続けています。つい最近、両眼の白内障の手術を受けました。

 曰く「オーバーホールをして新しい眼になったのですから10年以上は使いたいです。年齢を考えますと笑われますが、絵を描く職種は命が尽きた時が定年です。それまでは現役です。絵は自分が歩んで来た鏡の産物です。ですから、僕は単に風景画でも無く、人物画でも無く、人生画だと思うのです」

 「はい、僕は消しゴムは使いません。それは、人生が後戻り出来ないように、消すことは出来ないのと同じことと考えています」

 「僕は鉛筆の芯を針のように尖らせて描きます。手のひらに刺すと跳び上がるほど痛いですよ。だんだんと短くなっていく鉛筆はこうして鉛筆ホールダーに付けてギリギリまで使い切ります。鉛筆に感謝です」そう言って、ポケットから愛おしそうに出して見せてくれました。「こんなに短くなるまで使うんですか!」思わず叫んでしまいました。

 どこまでも熱く語る安っさん。ふと、鉛筆画での生活はなかなか大変だろうなぁとの不安もよぎります。

 安っさんは、かつてこんなこと書いていました。「一番平凡な筆記具で、世界一素晴らしい絵を描こう、地味な裏方の鉛筆画に光を当てて表舞台に出してあげよう、鉛筆画が評価されなくて生活が行き詰っても、自分で決めた人生、潔いことなのだ・・・」

 「僕は絵を描いてきた道程で行き詰まり、挫折した日々に素晴らしい人に出逢えて来ました。だから今まで描くことを手放さないで歩いて来れたのです」(安住孝史鉛筆画文集「東京・昭和のおもかげ」2004年9月株式会社日貿出版社刊)

 彼を「清貧の思想の体現者」と称する方もいます。

 「来年を楽しみにしていてください。今、大きな夢に向かって挑戦中なんです!」良くなった眼を輝かしながら語り続ける安っさん。

 僕は、安っさんは自分の信じるところに従って、 "できる限り無理を" して、安っさんだけにしか描けない鉛筆画・人生画を創作され続けているんだと思い知りました。

 かつて上野駅構内の様子を描きながら井沢八郎さんの「ああ上野駅」を口ずさんでいたという安っさん、そして今、全国各地で黙々と頑張っている隊員の皆さんはじめ本紙読者の皆さんに、最近出会った歌を "応援歌" として送りたいと思います(平井 大 作詞作曲「題名のない今日を」。歌詞筆者抜粋)。

「なにげない日常に花束を

 なにげない景色に額縁を

 題名のないこんなありふれた今日が

 僕たちが作り出した

 生涯一の名作さ

 Trust me

 きっとそうさ

 Oh baby

 I believe in future

 No matter what

 may come

 No matter what it

 takes

 No matter what

 people say」


北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事

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