自衛隊ニュース

第11期国際平和協力上級課程
統合幕僚学校国際平和協力センターは7月4日から7月22日の間、「第11期国際平和協力上級課程」を同センター(市ヶ谷駐屯地F2棟)で実施した。
本課程は、1佐・2佐の自衛官、相当級の事務官等のほか、他府省庁の職員や諸外国軍人を対象に「国際平和協力活動等の職務に従事する上級部隊指揮官又は上級幕僚として必要な知識及び技能の修得」を目的として年1回実施されており、今回は3年ぶりの開催となった。
教育課目は、前段に国際平和協力活動等の一般基礎知識及び原則的事項、国際平和協力活動等における自衛隊運用に関する教育を行い、後段に派遣部隊指揮官あるいは国連平和維持活動等の上級司令部幕僚として勤務するために必要な教育(PKOCCC=PKO Contingent Commanders' Course)を行う2部構。後段の教育では、PKO教育の専門家として活躍中の退役外国軍人やNGO活動経験者等を招いて英語による講義、討議、発表を実際の活動に則して行った。
今回の課程には陸海空自衛官のほか、カナダ及びジブチから留学生を含む計10名が参加。講義やグループ討議等を通じて、異なった立場での識見や経験などを交えながら、積極的に国際平和協力活動に関する知識を深めた。
国際平和協力センターは今後も引き続き、国際平和協力活動等の要員ニーズに対応した教育訓練及び調査研究を積極的に行っていく。
(国際平和協力センター)
国際平和協力活動30年(1)
ー自衛隊PKO派遣等を見るー
陸自がカンボジアで最初の国連平和維持活動(PKO)を行ってから今年9月で30年となる。防衛省・自衛隊がこれまでに行ったPKOをはじめとする国際平和協力活動を振り返り、また、現在実施する同活動を今号から6回(予定)にわたって紹介する。
施設学校の教官ら能力構築支援担う
パプアニューギニア軍へ
陸自施設学校(勝田)は7月13日から同29日まで、パプアニューギニア国防軍工兵大隊の4人に対し、施設機械整備の能力構築支援を行った。
施設機械整備分野の基礎事項について教育し、同軍の施設機械整備能力の向上、災害対処能力の強化に寄与。また日本、同国間のパートナーシップの強化、「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP)の維持・強化に寄与することが目的。
施設学校はこれまで、アジア、アフリカ地域を対象とした能力構築支援等を通じて関係各国の工兵(施設)能力向上に寄与している。また、「国連PKO工兵部隊マニュアル」の作成・改訂にも携わり、高く評価されている。
パプアニューギニア国防軍への能力構築支援は、オンラインで行った昨年3月に続いて2回目。今回は同軍のポカイエ・ロビン軍曹ら下士官・兵士4人が参加。施設学校補給整備教官室の矢野勝志1陸尉はじめ同校の教官、助教3人が指導に当たった。
教育では、安全管理等の座学教育、整備工場の研修に続いて実習を実施。ディーゼルエンジンの分解・組み付けを行った。
教育終了後、ロビン軍曹は「教育プログラムが素晴らしく、矢野教官をはじめとするインストラクターの皆様は経験豊富で知識も高く、大変分かりやすく学ぶことができた。日本の皆様とこのプログラムに心の底から感謝します」と謝意を示した。
雪月花
今でも何かにつけ大勝負になった時、「関ケ原の戦い」と言われるが、その由来が1600年に徳川家康の東軍と石田三成の西軍が戦った天下分け目の戦場が関ケ原だったことは今更言うまでもない。また叔父と甥で皇位継承を争った壬申の乱(672年)でも東西激突の場になったのが岐阜県不破郡関ケ原町。滋賀県と接した同町はちょうど東西に日本を分ける線引きをしたような位置にあり、日本の東西文化の境界とも言われている。食べ物も言葉も風習もこの辺で切り替わるらしい。昼食で日清食品の「どん兵衛」を友人と食べていた時、彼が「どん兵衛」の味は東日本と西日本で違うと話し始めた。日清食品の広報に聞いてみると製造は静岡県の工場で行うが西日本は薄味、東日本は濃い口と別々の味付けで出荷している、その境界が関ケ原付近になるということだ。以前から聞いていた正月のお雑煮の餅の形、西が丸餅で東は角餅の境界もこの辺らしい。関ケ原町歴史民俗学習館に問い合わせると「天下分け目」が同町のウリのようで立派な資料を送っていただいた。境界になった物がいっぱい紹介されている。戦場で携帯食になったおにぎり、西は俵型で東は三角形。面白いのがエスカレーターの立ち位置。岐阜県の大垣駅や垂井駅は左(右空け)に対して滋賀県の米原駅は右で(左空け)、ここから東京と大阪の違いにもなっている。関ケ原町では町おこしに東西文化の境界という地の利を活かして「関ケ原東西対抗〇〇大会」「〇〇関ケ原」などの名をつけて年中行事になるようなイベントの開催誘致を考えているようだ。ー大垣共立銀行の資料も参考にしましたー
読史随感
神田淳
<第107回>
幕臣川路聖謨の苦闘
ロシアとの関係は、近代国家日本の安全に影響する関係であり続けている。北方領土問題の解決の見通しはない。今年、ロシアがウクライナ戦争を起こし、日本も西側の国としてロシアを非難、制裁を課し、日露関係は悪化している。
ロシアは18世紀末には北海道に来航し、通商を求めたりしていたが、幕末の1855年日露両国間で初めて条約が結ばれ(「日露和親条約」)、国境が定められた。この条約は、日露の国境線を択捉島とウルップ島の間に置き、それより南を日本領、北をロシア領とした。また、樺太(サハリン)は国境を設けず、これまで通り両国民の混在の地とすると定めた。その後「千島樺太交換条約(1875)」、「ポーツマス条約(1905)」で国境線の変更があったが、太平洋戦争末期(1945)にソ連が日本に宣戦布告、ポツダム宣言を受諾して停戦した日本になお侵攻し、樺太全島、北方領土四島(択捉、国後、歯舞、色丹)を含む千島列島を占領した。その内、北方領土四島は固有の領土であるとして日本は返還を要求しているが、ロシアは四島とも第二次世界大戦で正当に獲得した領土であるとして、返還に応じていない。日本が四島を固有の領土と主張する根拠に1855年の「日露和親条約」があり、この条約の歴史的意義は大きい。
「日露和親条約」は、来航した露国使節プチャーチンと幕府の勘定奉行川路聖謨との死力を尽くした交渉結果として成立した。樺太についてプチャーチンは、樺太島の南端アニワ湾までは日本領だが、それより北はすべてロシア領だと主張。川路はアニワより黒竜江付近まで日本領だと応酬し、その根拠として過去日本人による幾つかの調査結果をあげた。択捉島の帰属についてはプチャーチンが択捉島の日露折半を提案したが、川路は択捉島が日本の領土であることを一歩も譲らなかった。やがてプチャーチンは択捉島の日本帰属を認め、樺太についてはこれまで通りとして国境を定めないことで決着した。なおこの時ロシア本国は樺太の占領計画をもっていたこと、そしてウルップ島以北がロシア領で、択捉島は日本領でよいとの見解が本国政府より示されていたが、プチャーチンは交渉で択捉島の権利を主張します、と本国に伝えていたことがわかっている。
川路聖謨の高い見識と人間力について、プチャーチンの秘書ゴンチャロフが絶賛している。「彼の知性には良識があり、見事なまでに熟達された弁論を発揮して我々と対立しようとも、その一言一句、癖や物腰でさえも、彼が熟練された人間であり、思慮のある知性と洞察力を備えていることが見て取れる」と。
幕末の幕府は決して頑迷固陋でなく、開明的だった。老中首座阿部正弘は開明的な逸材で、彼は身分、家柄に関係なく実力本位で次々と幕府要職に人材を登用した。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登り詰めた川路聖謨はこうして登用された幕府人材の典型である。一歩あやまれば西洋列強に蹂躙される日本の困難な時期に、独立を維持して維新後の飛躍を準備したのは、川路のような人材を擁する幕府だった。
プチャーチンの以下の本国政府への報告の断片が、当時の日本人の高い民度を表わしているだろう。「ほかの旅行者が記しているように、日本滞在中には、日本人は極東の中で最も教養高い民族であると断言できるほどの機会が十分ありました」
(令和4年8月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。