自衛隊ニュース

読史随感
神田淳
<第106回>
安倍元首相の死を悼む
7月12日、安倍元首相が奈良で参院選の応援演説中に41歳の愚かな男に銃撃され、病院に搬送されたが2時間半後に死亡した。
信じられない。戦前、原敬、浜口雄幸、犬養毅、高橋是清といった首相あるいは元首相がテロで命を落としたが、こうした政治家を失って日本が転落していった歴史を思い出す。
安倍元首相は、しっかりした国家意識と、きわめて真っ当な歴史認識をもつ政治家だった。国政を担う政治家がしっかりした国家意識をもつのは当たり前だと言うかもしれないが、日本においてはそうではない。
2010年9月7日、中国の漁船が尖閣諸島付近の日本の領海に侵入し操業していた。これを見つけた日本の海上保安庁巡視船が、漁船に退去を命じたが、漁船はこれを無視して操業を続行。漁船は2隻の巡視船に向かって衝突を繰り返し、逃亡を図った。巡視船は漁船を停船させ、船長を公務執行妨害で逮捕。漁船を石垣島まで連行し、事情聴取を行った。那覇地検は悪質な中国漁船の行為に対して、船長を起訴する方針を固め、船長の拘置期間を延長した。
尖閣諸島の領有権を主張する中国はこれに激しく反発。船長の釈放を要求し、日本に対する報復措置を次々と実行し始めた。9月24日、那覇地検は突然「今後の日中関係を考慮して、船長を処分保留で釈放する」と発表。船長は25日中国のチャーター機で帰国した。この時日本は民主党政権だったが、民主党政権はこのような国家の主権にかかわる重大問題から逃げ、その処理責任を官僚に負わせた。菅直人首相は「釈放は検察当局が粛々と判断した結果」だと述べ、外務省幹部は菅首相の釈放指示があったことを認めたが、それについて質問された菅氏は「記憶にない」と答えた。国民は、政治主導を標榜しながら国を守る能力も責任感もない民主党政権を、このとき見限ったと思う。
これと対照的な政治家が安倍さんだった。安倍さんは北朝鮮による日本人拉致問題に、国民を守る国家の責務の問題として取り組んだ。2002年小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問。その後の交渉により同年10月、拉致被害者5人の一時帰国が実現した。外務省は交渉の経緯から、5人を北朝鮮に帰すべきと主張したが、中山恭子内閣官房参事は帰すのはおかしいと主張。5人の被害者も「北朝鮮に帰らず、日本で子供たちの帰国を待つ」希望であった。当時の官房副長官だった安倍さんは、「彼らの意志を表に出すべきでなく、あくまで国家の意志として5人は帰さないことにする」と決断。小泉首相の了承を得て北朝鮮に通告した。2年後の2004年には蓮池さんと地村さんの子供たち5人と、曽我ひとみさんの夫ジェンキンズさんが帰国した。
安倍さんはきわめて普通の真っ当な国家観をもつ保守政治家だった。戦後の日本を風靡した、国家を否定するような進歩主義者の国家観とは無縁だった。こうした安倍さんを朝日新聞が「安倍は極右」だと決めつけ、異常な反安倍キャンペーンを張った。朝日は世界から異常に外れているのは、安倍さんではなく、自分たちであることを知らなければならない。
安倍さんは外交で世界のリーダーたちから高く評価され、信頼された。近・現代史の真実と、日本が誇るに値する国であることをよく知る安倍さんは、世界のどの首脳にも位負けすることがなかった。
(令和4年8月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。
雪月花
コロナ禍で2年間封じられていたイベントが各地で再開されている。京都の祇園祭、お稚児さんが先頭の山鉾の上でしめ縄を切って23台の山鉾が動き出す。3日間、京の町は優雅な熱い雰囲気に支配される、毎年友人から見に来るように誘われるが結局ナマを見ることは叶わないで終わりそうだ。テレビ中継で十分満足した。この後には東北の4大祭り、四国の阿波踊りやよさこい鳴子踊りなども控えており日本列島は祭り一色になりそうだ。もちろんこれほど華やかではないが筆者の出身地高知の山間でも以前は先祖供養として盆踊りは欠かせない年間行事の一つであった。石の百階段を上った山の上に小さな神社がある。狭い敷地にやぐらを組んでその周りを善男善女が身振り手振りよろしく真剣に踊り回る、やぐらの中では喉に自慢の若い衆が太鼓を叩きながらお囃子を歌う。子供たちは独特の匂いのするガス灯から明かりを取った屋台で一本5円のアイスキャンデーやヨーヨーを買ってもらい大満足、お酒の入ったおじさんたちも賑やかだ。この踊りが終わるとやぐらを片づけて相撲大会になる。筆者は小学生の頃から出ており3番抜きや5番抜きを何回も獲った。この時の賞品は竹の笹に御幣を飾った物だけだったがみんなの前で行司さんから名前を告げられ渡してもらうのが少し気恥ずかしいが嬉しかった。翌日、これを家の前に親が飾っており通りかかった人たちに褒めてもらうのがまた嬉しかった。何十年も前の昭和ノスタルジーだがこの季節になると思い出さずにはおられない。
圧巻!エレファントウォーク
日米総勢34機が参加
三沢
5月13日、航空自衛隊三沢基地(司令・久保田隆裕空将補)は、米空軍第35戦闘航空団、米海軍三沢航空基地隊、第138電子攻撃隊、第8哨戒飛行隊とともに「エレファント・ウォーク」(多数機発進準備訓練)を行った。令和2年6月に引き続き2回目の実施となった。
この訓練は、多数機運用能力や即応態勢を確認するとともに、強固な日米同盟及び三沢基地における米海軍と米空軍そして航空自衛隊の友好関係を発信するために行われた。
今回参加した機体は、米海軍からP8×1機、C12×1機、EA18×2機、また、米空軍からF16×16機、さらに第3航空団からF35A×12機、第601飛行隊からE2D×2機の総勢34機となり、滑走路上で様々な機体が勇壮な姿を見せる様子は圧巻!まさに「エレファント・ウォーク」そのものだった。
なお、今回は天候が下り坂で撮影には不向きな環境だったが、三沢ヘリコプター空輸隊の協力を得て、日米の様々な機体によるダイナミックな光景をカメラに収めることができた。また、CH47Jの機内では、日米の広報マンが一緒になって撮影する貴重な機会となった。
ノーサイド
北原巖男
朝ドラを観て
沖縄の本土復帰50周年を記念して、沖縄本島のやんばる等を舞台にした朝ドラ「ちむどんどん」が放映されています。
隊員・ご家族の皆さん、本紙読者の皆さんは、ご覧になっていらっしゃいますでしょうか。
8月15日が近づいて来た先日は、主人公(暢子)はじめ4人の子どもたちの母親優子(役‥仲間由紀恵さん)が、両親や姉と生き別れ自分の腕の中で幼い弟が亡くなったという苛烈な沖縄戦の体験を、涙ながらに子どもたちに語るシーンや、今は亡き夫(賢三)と一緒に壕(ガマ)での遺骨収集に取り組んで来た様子などが放映されました。
そして、旧盆の最終日(ウークイ)、父から三線(さんしん)の手ほどきを受けた末娘(歌子)が沖縄民謡「てぃんさぐぬ花」を歌う中、ウチカビ(紙銭)を燃やして家族全員でご先祖さまをお見送りする光景も。
ーー既に四半世紀近く前のことになりますが、沖縄県南城市玉城にある糸数壕(アブチラガマ)を訪ねたときのことが湧き上がって参りました。
そして、2001年、初めて沖縄県を主な舞台として放映された朝ドラ「ちゅらさん」の一家の主人で四六時中三線を弾いていた恵文さん(役:堺正章さん)がよみがえって参りました。
南城市のHP等によりますと、糸数壕(アブチラガマ)は、もともとは糸数集落の避難指定壕でしたが、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。全長270mの自然洞窟は、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、600人以上の負傷者で埋め尽くされました。1945年5月25日に南部撤退命令が出て、病院が撤退したあとは糸数の住民約200人と生き残り負傷兵、日本兵がガマで雑居しました。米軍の馬乗り攻撃に遭いながらも生き残った住民約200名と負傷兵は、1945年8月22日、米軍の投降勧告に従ってガマを出ました。
ガマは、一歩入った途端に漆黒の世界が取り囲んで来ます。あの日僕は、懐中電灯を照らしながら少しは進んだのです。しかし、懐中電灯の明かりも届かない向こうの闇の中に引き込まれてしまうのではと急激な恐怖心に襲われました。慌てて逃げ帰りました。
しかし、そんな自分を非難するもう一人の自分だけでなく、激しい沖縄戦で負傷し痛みに苦しんだり犠牲になられた沢山の皆さんの深い嘆きや悲しみ、落胆の目が見えるようでした。常日頃から「ご先祖さまや人生の先輩の皆さんは、子孫や後輩の安全や幸せ、そして繁栄を願いこそすれ、子孫や後輩を苦しめたり不幸に陥れることなどあり得ない」と信じている僕なのです。それなのに、アブチラガマで彼らに抱いた僕の頭の中は、そして行動は…。
一週間後、今度は強力な懐中電灯を持って再度ガマを訪ねました。実はそのときも、ガマの中を進む途中、お供え物がありお祈りを捧げる場所があることは認識出来たのですが、どうしても恐怖心が先に立って、そこまでたどり着くことは出来ませんでした。まだ情けない自分がいました。
「これではいけない」と、更に一週間後、不退転の決意で訪問し、ようやく、ありたい自分に近づくことが出来ました。そして翌週、もう一度ガマを訪ねました。
あれから25年近く経った今も、昨日のことのようです。
現在、糸数壕(アブチラガマ)は、当時と異なり、予約制でガイドの方なしには入場出来ません。安全に、しっかりと沖縄戦の実相の一端に触れることが出来ます。
隊員の皆さんはじめ多くの国民の皆さんに体験して頂ければと思います。
さて、「ちゅらさん」の恵文さん。恵文さんには、いつも三線がありました。朝から三線。うまい下手は関係ありません。彼は、船を出迎えたり見送ったりするときも、何と信号待ちのタクシーの中でも三線を弾いていました。日常生活に溶け込んでしまっている自然な姿に、僕は沖縄三線の真骨頂を見た思いがしました。そんな沖縄の三線が好きです。
そういえば、2002年に東ティモールに派遣されていたPKO施設部隊を訪問したとき、灼熱の太陽のもとでの道路整備工事を終えたくつろぎの夜、北海道出身の若い隊員の歌三線に合わせて、多くの隊員の歌声と手拍子が宿営地に響いていたことも思い出します。生活・勤務環境が厳しい異国の地で、明日への活力も醸成していた身近な三線です。
「ちむどんどん」の賢三さんも、恵文さんと同じ。いつも三線がありました。遺影も三線を抱いています。結果的に夢はかないませんでしたが、彼は、沖縄民謡歌手を目指していたとのこと。でも、そんな賢三さんが遺された宝は、シャイで病弱だった末娘の歌子がしっかりと沖縄の歌三線の素晴らしさを受け継いでいることです。
歌子の恩師の下地響子先生(役:片桐はいりさん)が歌子に贈ったエール。
「あなたはあの日、家族のために恥ずかしくても一生懸命に歌いました。あなたはもう十分、誰にも負けないくらい素晴らしい人間です!」
「あなたはいつでも、どこでも、どうなっても歌うことをやめてはなりません!」
歌子は沖縄の言葉で「てぃんさぐぬ花」を歌っていました。
てぃんさぐぬ花や
爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ
親(うや)ぬ寄(ゆ)し事(ぐとぅ)や
肝(ちむ)に染(す)みり
・・・・・・・・・
(標準語訳)
ホウセンカの花は
爪先に染めて
親の言うことは
心に染めなさい
北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事