自衛隊ニュース

陸上自衛隊幹部候補生学校
4課程合同入校式
陸上自衛隊幹部候補生学校(学校長・石原由尊陸将補=前川原)は、4月4日、第103期一般幹部候補生(防大・一般大卒)課程、第103期一般幹部候補生(部内)課程(前段)、第58期医科・歯科幹部候補生課程及び第5期看護科幹部候補生課程の計682名の合同入校式を執り行った。
入校式では、藤岡史生陸幕人事教育部長をはじめ、橋爪良友教育訓練研究本部副本部長等多数の部内来賓立会のもと、候補生に対する辞令書交付、候補生による任命申告、宣誓及び入校申告が行われた。
石原学校長は、式辞において「試練の前に敢えて立て」、「同期を大切に」の2点を要望し、「古来より尚武の地として知られるこの地で研鑽できることを喜びとし、今の決意を堅持し続け、幹部自衛官としての基礎を築いてもらいたい」と歓迎の言葉を送った。
続いて、陸上幕僚副長(山根寿一陸将)から「幹部自衛官としての使命感を確立せよ」、「自ら鍛錬し、常に挑戦せよ」の2点の要望事項と、「幹部候補生学校校歌の如く『くろがねの誓い』を堅持し『はつらつと心を燃やし』日々鍛錬に励み、光輝く自衛官となるべく成長してほしい」と期待の言葉がビデオメッセージにより贈られた。
入校式を終えた候補生達は、決意を新たに前川原での教育に挑むことになる。
中央病院職業能力開発センターに第67期研修生13名が入所
公務又は通勤災害による負傷や疾病で障害を負った隊員の円滑な部隊勤務や社会復帰に向けた更生指導業務を実施する自衛隊中央病院(三宿)職業能力開発センター(センター長・大堀健防衛事務官)で4月7日、第67期生13名(陸自11名、海自1名、空自1名)の入所式が行われた。
国歌演奏、入所生の任命後、学生長が代表してセンターでの研修を申告した。
続いて、執行者の福島功二病院長が登壇。研修においても自衛官としての自覚と戦いに臨んでいない時でも、態勢を整え勝利を導くことができるという統率方針である「常在戦場」に触れたほか、「友愛」・「誠実」・「努力」・「感謝」の4項目を要望し、研修に精進するよう式辞を述べた。
この後、防衛省人事教育局齋藤敏幸給与課長によるビデオメッセージを放映。
「研修生の皆さんが同期の絆を深め、健康に十分留意しつつ、全てのカリキュラムを終了し、更なる飛躍を遂げて職務に復帰することを祈念する」と激励の言葉を述べた。
研修生は、1年又は6カ月をかけてそれぞれの履修科において、各人の目標に向け、知識・技能、各種資格等を習得し、部隊復帰後それぞれの職務において貢献できるよう研修することとなる。
職業能力開発センターでは、「公務災害等により障害を負った隊員がおられたら、ぜひ入所を検討してもらいたい。部隊復帰に向けてしっかりサポートしたい」としている。
同センター入所については、各駐屯地・基地の賠償補償担当に相談下さい。
札幌病院准看護学院「准看護師」課程入校式
4月1日、自衛隊札幌病院准看護学院(学院長・野澤2陸佐)は、北部方面総監部から医務官小林1佐、防衛部訓練課長椋木1佐、人事部人事課長瀬尾1佐、北部方面最先任上級曹長金子准尉が臨席して、多くの志願者の中から選抜され、北は北海道(旭川)から南は沖縄(豊城)の全国から集まった第47期初級陸曹特技課程「准看護師」27名(男性9名、女性18名)の入校式を挙行し、学生代表の松井士長は同期を代表して決意を込めた力強い声で申告を実施した。
入校式にあたり病院長(鈴木智史陸将)は、「本課程で養成される准看護師たる初級陸曹は、第一線から治療・後送の各段階において、傷病者救護・看護を担うという重要な役割が期待されている」と話し、学生に「自己錬磨」「思いやり」の2つを要望し、「修業における自己の目標を設定し、地道に日々研鑽するとともに、それぞれの場面において自分のベストを尽くし、目的意識と自発的な意欲を持ち努力を継続することは諸官に大きな成長をもたらす。与えられた365日24時間を自己錬磨のために有意義に使ってもらいたい。また第一線における過酷な状況や疲労困憊の中で、傷病者を救うことは非常に厳しい任務です。我々の仲間は、負傷したら必ず助けてくれると衛生を信頼して任務に邁進しています。そのためには、患者を思いやり、仲間を思いやり、『利他』の心を持って行動できる、使命感を持った衛生科隊員であることが求められる。人の痛み、苦しみや悩みを感性深く受け止め、人を思いやる気持ちが滲み出るような准看護師を目指してほしい」と訓示した。
准看護学院長は、「ビジョン&ハードワーク」を要望し、「長期的目標を達成するのは容易ではなく、そのために多くの短期的目標を達成する必要があることから、平素より明確なビジョンを持ち、日々一生懸命に努力することが大切である。諸官ら一人一人が将来どのような准看護師たる衛生救護陸曹になりたいか明確なビジョンを持ち、それを達成するために今何をすべきかを考えて日々研さんに努めてもらいたい」と式辞を述べた。
北部方面総監部医務官(小林1陸佐)は、「君たちは、これから2年間、ここで誇り高き准看護師、そして誇り高き救護陸曹になるべく教育を受ける。『負傷した人を助ける』その誇り高き使命感を強く持って、学んでください。君たちには大変な現場での活躍が期待されています。君たちは大事な宝であると認識をしていますし、また、大きな期待をしています。ぜひ優しさと強さを兼ね備えた准看護師を目指して頑張ってもらいたいと思います」と祝辞を贈った。
訓示等における激励の言葉を心に刻み、決意を新たに学生27名は准看護師となるべく教育に臨む。
ノーサイド
北原巖男
5月15日がやって来ます
ウクライナの惨状、増え続ける一般市民の犠牲が、連日報じられています。
ロシアのウクライナ侵略は、僕たちが今享受している平和や安全が、小さな子供たちの時代になっても、所与のものとして続いて行く保証など全く無い国際社会の冷徹さ、非情さを見せつけています。
「防空壕の中にいた、あのお母さんや子供たちは無事逃げることが出来ただろうか?」
全く見通しの立たない停戦交渉、侵略を続けるロシア軍の戦車の車体に大きく乱暴に書かれた白いZの文字を見ていると、僕は、激しい憎悪の念が湧いて来るのを禁じ得ません。と同時に、安全な日本に在って、テレビの中の目を覆いたくなる惨状を大変だとは思いつつも、所詮は遠い海の向こうの出来事だと割り切って観ている自分も感じます。
かつてわが国唯一の地上戦が行われた沖縄戦で、鉄血勤皇師範隊の一員として戦い沖縄県知事も務めた大田昌秀さんが書いています。
「ひとたび戦争ともなれば、真っ先に過酷な運命に陥るのは最も弱い立場の人びと、つまり戦闘能力の無い老幼婦女子たちに他ならないのです。そのことを沖縄戦はあますことなく明証しました。
とりわけ未来を担う子供たちの犠牲は "悲惨" の一語に尽きます。未来に向けてあらゆる可能性を秘めたまま、幼子たちは人生のつぼみのまま花開くこともなく散ってしまったからです。しかも、そうした事態は対馬丸事件のように県外への疎開途上の災難に尽きるものではありませんでした。島内に残された子供たちの運命もまさに無残としか言いようのない冷酷無比なものでした」(「大田昌秀が説く沖縄戦の深層」2014年8月 高文研刊)
今同じことが、ウクライナで起きています。
沖縄戦当時小学4年生、やんばるの国頭村に逃げて助かった現在90歳のウチナーンチュの方から、ウクライナの子供たちが当時の自分と重なるとの電話を頂きました。
「戦争は本当に怖かった。うちの家族はいつも一緒に逃げ回った。幸運にも助かった。食べるものが無くてソテツも食べた。ソテツはそのままでは毒なので、乾燥して水に漬ける。ウジが湧いてきたら解毒された証拠なので、それを洗って食べた。ひもじかった。マラリアにもかかった。戦後、石川の収容所に入った。1947年に村に戻ったが、全てが破壊尽くされてすっかり変わってしまっていた。ウクライナの人たち、子どもたちの悲惨な現状と戦後の大変な苦労が目に見えるようだ。
それにしても、権力の座に長くいる人間は何をしでかすか分からないものだ。怖ろしい。メンツにこだわっているロシアが折れないと収まらないのじゃないか。
わしゃよく分からんのだが、第3次世界大戦に発展しまいかと大変心配しとる。
香港や台湾に対する中国の動きも怖い。
日本はどうなる?心配だ。」
かつて長年首長も務められた長老のお話を伺っていますと、沖縄方面特別根拠地隊司令官 大田 実海軍少将が海軍次官に宛てた電報、「沖縄県民斯(か)く戦へり。県民に対して後世特別の御高配を賜らんことを」の有名な一文が浮かんで参りました。当時の県民の4分の1、約15万人もの皆さんが戦いの犠牲になり、そのうち14歳未満で亡くなった子供たちは、約1万1千余に及んでいます。
しかし、1952年のサンフランシスコ平和条約の発効で日本が主権を回復し国際社会に復帰する一方、沖縄は日本から切り離されてしまいました。1945年の敗戦から1972年5月15日に日本に復帰するまでの27年間、沖縄は米軍の統治下「アメリカ世」におかれて来ました。
今月15日は、復帰から50年の節目を迎えます。
この間、政府は、本土との格差の是正や過重な米軍基地負担の軽減等に努めて来ています。しかし、いずれも道半ばであり、引き続き県民皆さんの生活水準の向上や普天間基地の辺野古移設を含む基地負担の早急な軽減に取り組んで行かなければなりません。
僕も沖縄の基地負担の軽減に、現地でまた東京で携わって来た者の一人ですが、そうした取り組みの中で学んだことを、後輩の皆さんに伝えたいと思います。何らかの参考になれば嬉しいのですが。
それは、沖縄の皆さんが最も大切にされている「チムグクル(肝心)」。
お互いに立場の違いから厳しく意見をぶつけたり、やり合っても、そんな立場の違いを超越して相互に人間として信頼し、認め合い、努め合うことが出来る前提に在るのが「チムグクル」。僕はそう考えるに至りました。激しいやり取りがあっても、それは憎悪むき出しのいがみ合いとは異なります。
また、後を絶たない事件や事故での対応を通じて、在冲米軍の皆さん一人ひとりが、公私の別なく沖縄の皆さんの真に良き隣人として、誠実に行動して行く積み重ねの大切さを実感しました。
これは、全国各地の自衛隊員の皆さんについても全く同様です。地域の皆さんにとって、隊員一人ひとりが真に良き隣人であることを確信しています。
こうした中、昨年亡くなられた歴史探偵の作家半藤一利さんが遺された最後の原稿(「戦争というもの」2021年5月 PHP研究所刊)で紹介している歌人の三枝昴之(さいぐさ たかゆき)さんの一首がとても気になります。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ」
「リ」は完了形にあらず県民はいまも戦う
北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事