自衛隊ニュース

「一丸となり、練度向上させよ」
中警団
中部航空警戒管制団基地業務群(群司令・大石和浩1空佐=入間)は1月18日、冬晴れの空の下、「警備犬訓練始め」行事を行った。管理隊長の門田貴光3佐による訓練開始申告の後、5名のハンドラーによる訓練展示(服従訓練、警戒訓練、爆発物探知訓練、人員捜索訓練)を実施した。
訓練展示後の訓示で大石群司令は、「所望の練度にあることを確認した。日頃の訓練の成果を存分に発揮しており、非常に頼もしく思う。警備任務だけでなく、災害派遣等、警備犬に対する期待は年々高まりつつある。災害はいつ発生するか分からない。引き続き訓練に励み、練度を向上させてもらいたい」と述べた。
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留萌
留萌駐屯地(司令・高橋誠1陸佐)は1月11日、駐屯地所在の諸隊が参加し、令和4年訓練始めとして、毎年恒例の新春綱引き大会を行い、部隊の団結・士気の高揚を図った。
留萌一家の隊員たちは、息を合わせ、正月明けと感じさせない激しい動きで力いっぱい綱を引き、寒さを吹き飛ばすほどの熱戦を繰り広げ、優勝を争った。
倒れても綱から手を離さない粘り強い隊員の姿に、周りで見守る隊員からは大きな拍手が送られた。女性自衛官も参加した重迫撃砲中隊が団結した圧巻の引きにより3連覇した。
今年も引き続き留萌駐屯地は、あらゆる任務を達成できるよう訓練に邁進していく。
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岩手
東北方面特科連隊(連隊長・川間信太郎1陸佐=岩手)は1月17日、「訓練始め」を実施した。
岩手、郡山両駐屯地同時進行で行った。年頭の辞で川間連隊長は「国民、県民の負託に応える自衛隊として、プライドを持って訓練に臨んでもらいたい」と述べ、企図の徹底を図った。火砲を展開し今年最初の空包射撃訓練を、また、岩手駐屯部隊はスキー機動、郡山駐屯部隊は統制走を実施して士気の高揚を図った。
連隊は指揮官企図の具現のため、強靭な部隊、あらゆる任務を必成する事ができる部隊を目指し、東北方面特科連隊の隊員としての誇りと東北魂、やりがいと充実感をもって職務に邁進していく。
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多賀城
第22即応機動連隊第2普通科中隊(中隊長・小西貴史3陸佐=多賀城)は1月7日、新年の中隊伝統行事である「はだか駆け足」を実施した。
本行事は、部隊と隊員家族の安全祈願と「はだか」の付き合いによる仲間意識の高揚を図ることを目的として毎年行われており、昭和38年の中隊創設以来、今年で60回目を迎えることとなった。
中隊長以下96名の隊員は、上半身はだかに格闘ズボン、鉢巻きという出で立ちで日の出前の午前6時、中隊長を先頭に塩竃神社の表参道202段の階段を一気に駆け上がった。また、今年は女性隊員が初めて参加し、格闘服上下に鉢巻きの姿で男性隊員に負けじと奮起していた。
最後は、駆け付けてくれたOBの方々と共に、太平洋に昇る日の出を臨みながら中隊歌を合唱した。駐屯地帰隊後、駆け足に参加した隊員は、駐屯地に残った隊員手作りの豚汁で冷えた体を温めながらさらなる団結を図った。
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倶知安
第301対舟艇対戦車直接支援隊(隊長・藤本和大3陸佐=倶知安)は1月7日、駐屯地で「令和4年訓練始め」として、安全祈願、1キロコース駆け足、チーム対抗かんじきレースを藤本隊長以下29名で実施した。
令和4年隊目標は、「考えて、前進!」とし、安全祈願は全隊員でご祈祷した後、各種車両、整備工場にお神酒を献上して1年の訓練、整備業務、車両の無事故を祈願した。
これからの運が開けるという意味を込めて、年男による見事なハンマーの振りおろしで鏡開きを行い、隊員から大きな拍手が巻き起こり、縁起の良い安全祈願となった。
さらに、隊列を組み1キロ駆け足で気合を入れ、体を温めた後、4個チーム対抗での真剣勝負による、かんじきレースを行い、大変な盛り上がりをみせ、隊員の闘争心、士気の高揚が図れた。
年始は大雪で天気が荒れて顔が見られなかった羊蹄山も、太陽とともに顔を見せて隊員を見守り、清々しい年始のひと時となった。今月実施されるスキー競技会や検査、各種支援等を皮切りに、今年一年も昨年に引き続き、隊一丸となって突き進んでいく。
読史随感
神田淳
<第95回>
日本の武の思想の変遷
大東亜戦争に敗北した日本は1945年、平和国家として出発し、現在に至っている。この間日本から「尚武」の思想が消えて久しい。しかし歴史を顧みると、16世紀頃から戦前まで日本は「武国」との自意識があったと、佐伯真一氏は著書『「武国」日本』で述べている。以下、同著を参考として、歴史に現れた武の思想を概観してみよう。
中世の日本人が「武」をどう考えていたか、『平家物語』などの軍記物語から伺い知ることができるが、時代の新しい軍記物ほど「武」を肯定的に記述している。初期の軍記物である平安中期の『将門記』は、力強く戦う将門に対して否定的であり、戦災に苦しむ人々の記述が多い。
13世紀前半に成立した『平家物語』になると、多様な視点が共存し、武に対する否定的な記述も見えるが、全体としては戦う武士たちの姿と心が肯定的に描かれている。また同じ頃成立した『平治物語』では、国家にとって文武が重要であるが、末代には世が乱れるために「武」が重要になる、との認識を示している。そして14世紀後半に成立した『太平記』になると、知謀を駆使する良将など武士の存在が一段と全面に出、乱世を治める政道を摸索している姿勢が覗える。
近世になって、「天下布武」を標榜し武力による統一をほぼ成し遂げた織田信長、および信長を継承した豊臣秀吉は、実力をもって中世国家を解体し、新たな支配体制をつくりだした自信に支えられて、これを可能にした「武」を否定的に見ることは全くなかった。秀吉は日本を「弓箭厳しき国(=武力にすぐれた国)」と言い、日本を「武国」として誇る自意識があった。
江戸時代、日本が武国であるとの自国観は一般化し、定着した。この認識は日本人だけのものではなく、朝鮮通信使との交流記録から、朝鮮人が自国を「文の国」、日本を「武の国」と認識していたことがわかる。この認識は現代の韓国にまだ生きている気がする。
幕末、強力な西洋列強、特にロシアから侵略される危機感をもった水戸藩の儒者会沢正志斎は言う。日本が武をもって国を建て、武威を振るってきた由来は古い。武士が所領から切り離されて城下町に住む時代へと変化して、日本の武は衰えた。すべての民が天命(すなわち天皇の勅命)を奉じて戦った武国の黄金時代を現代に蘇らせなければならない、と。
会沢正志斎の理想は、明治国家の建設によって達成されたと言えるだろう。明治維新は、西洋列強並の強い武力(=軍事力)をもった近代国家を建設する、渾身の体制変革だった。建設された大日本帝国は、「富国強兵」を標榜した。昭和になると大日本帝国は軍国主義化した。軍部の力は強く、軍部が国政を左右した。統帥権の独立などという極端な軍事重視の思想が成立し、これが大日本帝国を滅ぼすことになった。
戦後、軍事で失敗した戦前の経験がトラウマとなって、軍事力に関する本格的な考察は避けられるようになった。歴史を振り返ると、国が乱れ武士が勃興して武家政権が確立する時代と、外国の脅威に直面して国の独立が脅かされた時代に、当然のことながら、武力・軍事力が重んじられ、これに関する考察も深められることがわかる。
増大する外国からの脅威に直面する令和の日本は、過去の成功と失敗を糧としつつ、どのような武力・軍事力の思想を生み出すだろうか。(令和4年2月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。