自衛隊ニュース

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読史随感

神田淳
<第92回>

「南京大虐殺」の真実ー東京裁判

 戦後の東京裁判で「南京大虐殺」が確定した。判決文は述べる。「ーーー日本兵は市内に群がって、様々な残虐行為を犯した。ーーーこれらの無差別な殺人によって、日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女、子供が死亡した。ーーー後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上であったことが示されている。この見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその団体が埋葬した死体数が15万5千に及んだ事実によって証明されている。ーーー日本軍人による強姦、放火、および殺人は、南京陥落後6週間引き続き大規模に行われた」

 この判決は、全面的に検察側証言と資料に依存している。南京大学教授ベイツは証言台に立ち、「観察の結果、城内で1万2千人の男女および子供を含む非戦闘員が殺されたのを結論とする」と述べた。ベイツは1938年時点で「南京陥落後、4万人の中国人が殺された。そのうち30%(つまり1万2千人)は兵士ではなかった」とティンパーリへの書簡で述べていた。しかし、30%が一般市民だったという主張には何の根拠もなく、伝聞によるベイツの推測に過ぎなかった。

 20万人以上の殺害は、判決に述べるように、埋葬した死体数が合計15万5千体に及んだことを根拠としている。この数は、紅卍会による埋葬数4万件と、崇善堂による11万体を超えるという埋葬数との合計であるが、崇善堂の埋葬数は実際は1万体にも満たず、11万体は虚偽報告であることが現在明らかになっている。従って、判決の20万以上の殺害に根拠はない。

 また、当時の南京市の情況を記録した資料から、6週間にわたり20万人を超える虐殺が進行しているような実態は覗えない。安全地区国際委員会から日本大使館へ、38年1月中旬に帰宅した難民への日本兵による強姦事件が報告されているが、大虐殺の進行を彷彿させる報告はない。南京攻略戦を戦った中澤三夫は証言する。「ーー住民は日本軍を信頼して、市外の避難地にいた者も自分たちの住居に復帰していた。37年末には治安維持会が結成され、翌年1月1日の発足式には数万の市民が式場に集合して歓喜したほどだった。その後住民は漸増し、物売りの数も増えつつあった」

 いわゆる「南京大虐殺」が、20万以上の計画的な市民虐殺を意味する場合、そのような大虐殺は無かったと結論できる。しかし、軍紀を乱した日本兵が市内を徘徊し、強姦、掠奪を行い、散発的な市民殺害もあったことは否定できないと私は思う。検察側に提出された中国人と欧米人による日本兵の行動告発は、多くは伝聞、流言によるもので、誇大に脚色されたものが多いが、真実も存在すると考える。

 また東京裁判の判決は、南京陥落後日本軍の掃蕩作戦で摘発した便衣兵(軍服を脱いで潜む中国兵)の処刑を市民に対する殺戮と見なすだけでなく、南京戦の戦闘中日本軍が行った不穏な中国兵捕虜の処刑も不法な虐殺と見なしている。東京裁判のこの考え方に立つ限り、20万以上の大虐殺は荒唐無稽としても、南京で大量の虐殺はあったということになる。

 東京裁判は戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという、著しく公平性を欠く裁判だった。裁判官はすべて戦勝国から選出され、しかも事後法による裁判で、そこに法的な正義はほとんどなかったと私は考えている。

(令和4年1月1日)


神田 淳(かんだすなお)

元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。

知恩報恩〈4〉

住友商事株式会社 航空宇宙事業部 顧問 長島 純

人生100年時代における自衛官OBとは

 現在、私は、防衛大学校総合安全保障研究科の非常勤講師として、自分の子供たちよりも若い学生の皆さんとの交流を続けています。彼らの多くは、各自衛隊での勤務を既に経験した若手幹部自衛官であり、将来の自衛隊を担うことが期待される頼もしい面々です。私自身、任官後も自学研鑽を続ける彼らと接することを通じて、切実に感じさせられることがあります。それは、いかなる時でも、学びを続けることの大切さです。

 振り返ると、自衛官としての現役時代、日々の忙しい勤務の中で、部下隊員の育成には心がけていたものの、自分自身の個としての能力を高めることには関心が薄かったように思います。一般的に、これまで「学校で学び、会社で働き、引退して余生を過ごす」という3つの段階を経ることで一生を終えることが当たり前でしたが、社会環境の変化や、充実する医療制度のおかげで寿命が伸びることに伴い、これまで当たり前だった生き方の方程式が崩れつつあります。そして、生物学的に人間の寿命限界は125歳までという学説に基づけば、多くの自衛官が退官する50歳代中頃から60歳位までの期間は、まさに長寿命化しつつある人生の折返し地点に他なりません。そのため、自衛官としての退官という節目に当たって、我々は、人生を二度生きるという感覚を身につけ、もう一度、学び、働くという段階を繰り返して、長い人生を豊かに過ごす知恵が求められているのではないでしょうか。

 私は、現在、企業の顧問として、自衛隊の専門的な知見に基づいて、企業が行う事業や活動に対して助言を行う仕事をしています。もちろん、民間企業は、自衛隊とは性格の異なる組織でありますが、自衛隊で体得した指揮統率、組織の管理、人的なコミュニケーションなどの経験や知識は企業内でも重要な無形資産であり、顧問という立場を通じて、それらを広い意味で一般社会に還元することを心掛けなければいけないと思っています。その一方で、これだけ変化の早い世の中において、自衛隊OBとしての経験や知識がいつまで社会的に有効であり続けるのか一抹の不安を感じているのも事実です。

 英国の小説家ルイスキャロルが書いた「鏡の国のアリス」の中で、主人公アリスは、目の前を走り続ける赤の女王に対して、あなたは何故走り続けるのかと問いかけます。赤の女王の答えは「その場に留まるのであれば、走り続けなければならない」というものでした。そのエピソードは、今いる場所に居続ける、すなわち現状維持を願っても、自分を取り巻く環境変化のスピードに対して、それ以上の速さで自分が変わってゆかなければ、人間は進歩するどころか、現状さえも守ることが出来ないことを暗示しています。確かに、現代の環境や価値観の急激な変化に比して、人間の生物としての進化が相対的に遅いのは仕方のないことです。しかし、そこで何もしなければ、我々は時代の変化から突き放され、「赤の女王」が指摘するように、世の中の流れに身を任せるだけの流浪の民になってしまう恐れもあります。

 ここで、一昨年来の新型コロナウイルスCovid-19の世界的流行が、社会や人々に与えた影響の大きさと深刻さが思い出されます。突然の新型コロナウイルスによって、通常起こり得ないことが日常生活で当たり前のように起こり、当たり前のことが全く出来なくなるという逆転した世界が忽然と現れました。その結果、コロナ対策のために家族とも会う事ができない不条理や、感染予防のためにマスクを外せない日常、自由に遠くに移動することが許されない生活など、これまで予期し得なかった変化が、次々と我々に降り掛かったのでした。仕事の面でも、在宅勤務の継続と職場に出勤できない生活が常態となり、国内外への出張が自粛や禁止されるなど、これまでとは全く異なる勤務生活を余儀なくされることになりました。その一方では、情報通信技術(ICT)や会議アプリケーションの進化を背景に、オンライン会議システムが速やかに整備され、対面が当たり前だった各種会議がほぼ全て仮想化(バーチャル)されてゆきました。このような急速に変化に適合してゆく社会の流れは、私にとって大きな驚きであるばかりでなく、一種の焦燥感をも感じさせることになりました。更に衝撃的であったのは、今回の世界的なコロナ禍によって、全世界規模で多くの業種・業態の業務が一斉停止することになり、日本を含むアジアも深刻な経済上の影響を受けたことでした。そして、世界に、各国間の経済的な相互依存関係の想像を超える深さと、海外のサプライチェーンの機能不全が相乗的に世界物流の混乱を引き起こすことを改めて気付かせる結果になりました。日本でも、我が国のサプライチェーンの脆弱性が表面化し、経済面での混乱が東アジア地域の安定性を損ねかねないことが懸念される中、改めて、安全保障の観点から経済を見通す必要性が再認識されたのです。

 そのような動きは経済安全保障と呼ばれ、世界的に経済や技術の要素が安全保障にも大きく影響し得ることを示しています。今後は、経済安全保障が、環境やエネルギー問題などのグローバルな課題解決への期待を担うことも予想され、日本の繁栄と安定にも欠かせない重要な視座と位置づけられるはずです。既に、日本国内においても、経済安全保障の一環として、外国人投資家による投資や土地取引の規制に関する法律の制定を通じて、外国政府の国内影響を低減させる動きが見られ、2022年には経済安全保障に係る一括推進法が国会で議論される見込みです。今後、国家として経済安全保障を重視する流れの中で、経済面からの安全保障へのアプローチだけでなく、戦略的かつ包括的な観点から、経済安全保障に対する軍事面からの関与の必要性も高まってゆくでしょう。

 現在、経済安全保障の影響を大きく受ける民間企業の間では、長期にわたって組織として存続し続けるために、積極的に、経営に環境・社会・経済の持続可能性(サステナビリティ)の視点を取り込む動きが活発化しています。私は、そのような変化し続ける企業や社会の動きは、経済安全保障への関心の高まりに応じて、軍事的知見を有する自衛隊OBへの直接的な期待にも結びついてゆくのではないかと考えています。それは、将来的に、民間企業に経済安全保障担当の役員を新たに実現する動きや防衛装備品の共同開発に伴う情報保護業務の増加が見込まれる中で、自衛隊OBが活躍し得る場面や機会はますます増えることが予想されるからです。

 これまで、私は、一人の人生は三つの側面で成り立っていると考えていました。一つは、職場や各種コミュニティにおける「三人称(彼、He)」の人生、次に、配偶者と子供という家族との関係を軸とする「二人称(あなた、you)」の人生、最後に、自分という個としての「一人称(私、I)」の人生です。誰でも、生まれてから死ぬまで、これらの3つの人生を巧みに組み合わせ、バランスを取りながら多様な日々を過ごすのではないでしょうか。そこでの自衛隊OBの人生とは、退官したことで仕事を軸とする三人称の人生が一つの区切りをつけ、年齢的に子育てを中心とする二人称の人生も落ち着き始める中で、一人称の人生をより豊かなものにするための試行錯誤の始まりと位置づけられるかもしれません。今後、自衛隊OBが新たに活躍し得る環境が整えられてゆく中で、人生の試行錯誤から早期に抜け出し、一人称の人生を充実したものとするため、新たな学びへの取り組みや未知なる可能性への挑戦を厭わない姿勢を保持することが大切になってゆきます。

 更に、我々は、このような不透明で流動的な時代の中で新たな挑戦を始めるに当たって、冷静さと客観視を持ち、将来を見通す力を研ぎ澄ますことが強く求められています。新たな学びを始めるに際しても、闇雲に手を付けるのではなく、先ず、自分を客観的に見て、個人としての能力を正確に評価することが必要です。それは、自分のこれまでの経験やプライドを一度捨てて、自分自身に向き合い、自分の十数年後のあるべき姿を正しく捉えることに他なりません。そのためには、自衛隊を退官する前から、幅広い分野の関心事項を貪欲に学ぶ努力を続けることも大切です。そして、軍事や安全保障に直接関係しない領域の課題についても一定の知識や考えを習得し、最低限のリテラシー(ものごとを正確に理解し、活用できる能力)を涵養しておくことは、様々な場面において、未知なる挑戦への成功に一歩近づくことに役立つはずです。確かに、二度目の人生を始める意識をもって学びを続け、新たな分野での社会還元を心がけて実現すること、それは容易なことではありませんが、人生100年時代の中で、退官後の長い日々を豊かに過ごせるかどうかの鍵を握るとするならば、諦めずに挑戦してみる価値は十分あると考える次第です。

  

(著者略歴)

  防衛大学校29期生。ベルギー防衛駐在官、統幕首席後方補給官(J4)、情報本部情報官、内閣審議官(危機管理担当、国家安全保障局)、航空自衛隊幹部学校長などを歴任。


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