自衛隊ニュース

陸自中音×カナダ軍中央軍楽隊
特別編曲した「さくらさくら」等披露
陸上自衛隊中央音楽隊(隊長・志賀亨1陸佐=朝霞)は9月19日、カナダ・オタワで開催された自衛隊記念日及び日カナダ外交関係樹立95周年レセプションにおいて、カナダ軍中央軍楽隊との合同演奏を披露した。同地での自衛隊記念日レセプション開催は初めて。
レセプションでは、日カナダ両国の国歌演奏に続き、この日のために編曲された「さくらさくら」をはじめとする日本の代表曲やカナダの代表曲を演奏した。
アンコールでは山野内駐カナダ大使による「レット・イット・ビー」のピアノ演奏に合わせたセッションを披露し、集まった多くのレセプション参加者から大きな拍手が送られた。
陸上自衛隊中央音楽隊とカナダ軍中央軍楽隊は、2日間のリハーサルを含む同レセプションでの音楽隊交流を通じて、深い信頼関係を醸成し、日カナダ両国の強固な連携を示すことができた。
雪月花
「防衛ホーム」はこの10月15日号で創刊50周年を迎えました。これもひとえに読者の皆様や関係各所の方々のご指導とご協力の賜物であります。心から感謝申し上げます。50年前と言われてまず思い出すのはオイルショックのトイレットペーパー買い占め騒動ではないでしょうか。関西発でアッという間に全国にひろがりました。そして地方競馬から中央競馬に出世したハイセイコー、競馬界の伝説になりました。「走れ走れコウタロー」のヒット曲がいまだに耳の奥に残っています。日中国交正常化が田中角栄さんによって成し遂げられたのはこの前の年でした。日本が一番輝いていた時期でもありましたが、反面自衛隊にとっては大変厳しい状況でありました。制服で街に出ると心無い人たちからは罵声を浴びせられたり、学校ではいじめもありました。自衛官の子弟と思われないように官舎からバスに乗らないという話があちこちから寄せられました。これでは自衛官の士気に影響を及ぼす、と危惧した有志が家族を勇気づける方法として防衛ホームを発行することにしました。この頃は自衛隊に対する好感度は20%台、マスコミもアンチ自衛隊が主流で文化人と言われる人達は競ってそのような論を張っていました。そこで文化人や芸能人、スポーツ選手にも自衛隊側につく人がいっぱいいることを防衛ホームで紹介することにしました。第1回目に原稿を寄せていただいたのは時代小説の頂点に居られた村上元三さんと新進気鋭の評論家・草柳大蔵さんでした。この紙面を見られた読者は大変喜び、びっくりしたようです。続いて古賀政男さん、源次鶏太さん、雪村いづみさんと続きました。社に保存されている本紙には当時の著名人、文化人、有名なスポーツ選手、芸能人の方々の温かい原稿が残されています。今や国民の95%が自衛隊に好感を持つようになりました。関係者の皆様の努力の賜物ですがその前に自衛官とその後方を支援されたご家族の真摯な姿に国民は拍手を送っているのではないでしょうか。「防衛ホーム」では皆様とご一緒に自衛隊とご家族の応援を続けて参ります。
機略縦横(63)
中央音楽隊最先任上級曹長 准陸尉 丹羽綾子
信頼を得るために
私は、陸上自衛隊入隊以来、音楽科隊員として様々な場面で演奏任務に従事してきました。国賓・公賓に対する特別儀じよう演奏、記念式典でのパレード、自衛隊音楽まつり、音楽ホールでの定期演奏会。傍から見れば一見華やかな音楽隊の演奏任務の先には「国防」があり、音楽隊には「国民と自衛隊をつなぐ懸け橋として、国の威信を体現し、国民からの信頼を獲得するとともに陸上自衛隊の活動基盤の強化に寄与する」ことが求められています。
では、国の威信を体現し、信頼を獲得するためにはどうすれば良いのか。それは「当たり前のことを当たり前にする」ことだと私は思っています。驕ることのないひたむきな努力。演奏を聴いて下さる全ての人への感謝。自衛官としての基本基礎は勿論、社会人、仲間、家族として当たり前のことをする。それが「信頼を獲得する」唯一の方法なのではないでしょうか。
今日も、国民の笑顔のために、その向こうにある自衛隊に対する信頼を獲得するために、音楽科隊員は訓練に励んでまいります。そして、隊員の皆さんも、心が疲れた時や元気が欲しい時、是非音楽隊の演奏を聴きに来てください。笑顔いっぱいでお待ちしています。
読史随感
神田淳
<第135回>
マッカーサーがわかったこと
太平洋戦争敗戦後(1945~)の日本を占領統治したGHQのマッカーサー元帥は、帰国して1951年5月アメリカ上院軍事外交委員会で重要な証言を行った。「ーーー日本には蚕を除いては、産品がほとんどありません。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、そのすべてがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ちきられたら、日本では1千万から1千2百万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(Security)の必要に迫られてのことでしたーーー」と。
故渡部昇一教授を始めとする保守派の識者は、この証言を以て、マッカーサーが太平洋戦争は日本の侵略戦争ではなく、安全保障のための戦争、つまり防衛戦争だったことを認めたと主張する。東京裁判で被告東条英機は、「ーーー重要物資の大部分を、わが国は米英よりの輸入に拠っています。もし一朝この輸入が途絶すればわが国の自存に重大な影響があります。然るに日本に対する米英蘭の圧迫はますます加重せられ、日米交渉において局面打開不可能となり、日本はやむを得ず自存自衛のために武力を以て包囲陣を脱出するに至りましたーーー」と主張した。マッカーサーの証言はこの東条の主張を認めたものである、と。
上記証言だけでマッカーサーが日本の戦争は全面的に自衛戦争だったと主張しているとは結論できないように思われる。しかし、故渡部教授らが指摘するように、マッカーサーは在任期間中に体験した朝鮮戦争を通じて日本の安全保障環境をよく理解し、日本の戦争は自衛戦争だったとの見方を強めるに至ったとみてよいのではなかろうか。
1950年6月ソ連の支援を得て北朝鮮は突如韓国に侵攻し、南の釜山まで占領。アメリカはマッカーサーを総司令官とする国連軍を組織。韓国軍とともに反撃し、中朝国境近くまで押し戻したが、中共軍が北朝鮮の友軍として参戦し、一進一退となった。マッカーサーはトルーマン大統領に、「かつての満州を空襲して、敵の本拠地を完全に粉砕する、また東シナ海の港湾を封鎖する、」と強く進言。ソ連との核戦争になることを恐れたトルーマンはこの進言を退け、マッカーサーを解任した(1951年4月)。国連/アメリカ軍は共産軍に押し戻され、もとの38度線で休戦となった。
マッカーサーは朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中共の脅威を痛感した。そして日本が明治以来ずっとロシア/ソ連の侵略的膨張に脅威を感じてきたことと、日本の戦争がこれに応対する戦争だったことを理解した。北から強大な勢力が朝鮮半島に下りてきたとき、日本を守るために朝鮮半島を守らねばならない。そして朝鮮半島から脅威を払拭するために満州に出なければならないという、戦前の日本がやってきたことをマッカーサーは期せずして追体験することになった。
歴史家鈴木荘一は、戦前の満州国が共産ソ連の軍事的脅威に対する防波堤としてつくられたことをよく認識すべきであると言う。そして日本は国際社会に説明して、「満州建国はソ連の軍事膨張に対する防共国防活動なのだ。国際連盟加盟国もソ連の軍事膨張に対する防共活動を怠ると痛い目に遭うよ」と警告し、理解を求めるべきだったと言う。その後ソ連に支配されて苦しんだ東欧諸国の歴史を見れば、鈴木氏の主張には貴重な真実が含まれているように思われる。
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。