自衛隊ニュース

ゲッキーのイラスト

防衛ホーム 俳句コーナー

 小流れに鍋浸しある夕牡丹  佐藤 汀舟

 筑波嶺の裾を巡りて麦の秋  神谷 正紀

 夏草や金網高き変電所  小長谷敦子

 芝ゆく蟻林の中を行くごとし  渋谷乃里子

 吹割の滝奈落への口のごと  畠中 洋子

 江ノ島のヨットハーバーまぶしくて  松村久美子

 旅の荷をさげ故郷の草茂る  小窪美和子

 軽鳧の子を見に行く日課雨の日も  中村徳次郎

 したたかに雨の中なるかたつむり  長谷川ハルエ

 紫蘇かかへレジに並んでゐる男  本田すみ子

 昨日より声の大きな燕の子  岩崎 悦子

 風鈴の鳴りホームに電車待つ  栗原 勝

 紫陽花を詠みし一句の儘ならず  丙田真由美

 深呼吸して下闇に居る私  丸岡 正男

 補陀落(ふだらく)の峡にとよもす時鳥  和田 渓山

 箸袋に旅の一句を梅雨の宿  東原祐一郎

 新しき子供部屋にも薔薇を活け  山内 瑞江

 大師像唐を指さす青岬  中川 敦子

 万緑をただただバスの走りゆく  船本 峰月

 散り敷きしさつきに雨の容赦なく  坂元 順一

     選者吟

 一径のもつ涼しさにみちびかれ  保坂 伸秋

     (「栃の芽」誌提供)

 「栃の芽」誌をご希望の方は〈栃の芽会連絡先=仙台防衛施設局総務部・畠中草史氏電話022・295・1281内線3100〉へご連絡下さい。

インドネシア国際緊急援助活動に参加して

海上自衛隊第122航空隊 海曹長 宇都 満

 私は、昨年12月にインドネシア・スマトラ島で発生した津波災害における国際緊急援助活動に、派遣搭乗員(14人)の1人として、護衛艦「くらま」に臨時乗り組み、スマトラ島のバンダアチェ沖へ向かうこととなりました。

 1月24日現場に到着。そこは想像を絶する被害状況でありました。

 まず、上空から見ると、復旧活動の一環として残骸等を燃やしている煙が多数確認できました。さらに近づくと特に西海岸沿いが津波の影響をひどく受け、住宅であったであろうと思われる土台だけが数多く残っていたり、大型貨物船がひっくりかえっていたりしました。内陸部に入ると、多くの小・中型船舶が奥地まで打ち上げられていたり、道路は陥没し、あちこちで寸断され、橋は流され、ヤシの木が多数倒され道路をふさいでいました。まるでこの世の終わりを思わせるような光景の連続でありました。その中でモスクだけが原型をとどめており、不思議な印象を受けました。

 私たち海自の任務は、陸自国際緊急援助隊の海上輸送、同隊の活動への支援が主なものでありましたが、2月の上旬には救援物資の輸送の任務が追加され、直接の支援を開始することとなりました。

 2月12日に、初の食料、水、人員等の輸送(端末輸送)を実施しました。輸送場所は、バンダアチェ空港から百数十km離れたスマトラ島西海岸のテノム、ラムノ、チャランといった被災地。ヘリコプターの着陸地はサッカーグラウンド、道路、空地等さまざまであり、離着陸時の安全には特に注意を払って任務にあたりました。

 そのような中で私は、直接現地の人と触れ合うことができました。特に人員輸送ではその機会が多くありました。

 機内において、片言の日本語で「あ・り・が・と・う」と言って頭を下げ握手を求めてくることがたびたびありました。私はその度に「インドネシアの被災者のために役立っている」と実感しました。そして、努めて笑顔で接するようにしました。また、泣いている子供には気持らを和らける工夫をしました。言葉は通じなくても、「身振り手振りで心と心は通じあえるものだ」と改めて思う事もありました。

 ラムノ地区においては、大勢の子供がヘリのダウンウォシュを身体全体で浴びるのを楽しんでいるようでした。ヘリの離着陸前後には、大喜びして近付いてきて周辺で跳びはね、私たちを迎えたり見送ったりしてくれました。嬉しさを身体全体で表しているようにも思えました。

 私たちは「危険だ」と感じ対応しながらも、むしろそのような光景を望んでいたようにも思えます。それを見ることで逆に連日の過酷なフライトで疲れきっていた私たちが、元気付けられるような気がしたのです。

 派遣1か月を過ぎ、日に日に道路などのライフラインが確保され、バンダアチェから西海岸地区の復興の兆しがみられるようになり、自衛隊は3月10日で現地を離れることとなりました。

 海自の輸送も3月6日で最終日を迎え、私はその記念すべき最終輸送で少し胸が詰まる思いをしました。任務の内容はバンダアチェからチャランまでの人員輸送でありました。人員の内訳は、35歳前後の母親と5歳位の男の子、60歳前後の男性と50歳前後の女性2名の計5名。バンダアチェ空港を離陸後、ロンガと言う西海岸の被災地上空にさしかかったときのことです。母親が機内からロンガの被災地を見るや否や子供の手を握り締めて、大粒の涙を流し始めたのです。私はどのように接していいかわからず、戸惑ってしまい、何もできずにただ見守るだけでした。「ここに住んでいたのだろうか」、それとも「家、財産、夫、親、子供等の肉親を失って二人だけになってしまったのだろうか」などと想いをめぐらしました。対面に座っていた私は、その母親の大粒の涙を見るたびに胸が詰まり、つい目に熱いものを感じて、思わずヘルメットのバイザーを下ろしました。

 私は、その時「反省しなければ」と自分を責めていました。なぜならば、「被災者は少なからず心に痛みを持っているのだ」ということに気がついたからです。それがわかっていれば、いつも笑顔で接するようなことはできなかったであろうと、最後になって深く反省したのです。

 今回、インドネシア国際緊急援助活動という任務に携わる機会を得、46日間休むことなく最後まで任務を全うできたことを誇りに思う一方、個人的にもたいへん貴重な経験の連続だったと実感しています。このことを今後の勤務に少なからず役立てて行きたいと思っています。

 最後に、インドネシアの被災者の方々が一日も早く、元の生活を取り戻し安定した暮らしができることを強く祈りながら、SH-60J航空士として日々の訓練に励んでいるところです。

紙面一覧
紙面一覧
close